2000年9月1日から30日まで


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2000年9月25日

 涼しくなったけど、朝顔はまだ咲いている。

朝顔の種
 はじけた種の殻
まだ咲き続ける朝顔
 まだ咲き続ける朝顔の花

 昨日、9月24日は目を覚ましてテレビを付けたら、オリンピックの女子マラソンで、高橋尚子選手が一着でゴールしたところだった。朝食を食べ、ゆっくりと新聞を読んで、その後スタートからのVTR放送を見始め、ビデオ編ソフトでビデオ編集のテストをしながら、モニターに写るマラソンの画面をちらちら見ていたが、レースの後半はずうっと見てしまった。先頭を切って走り続ける姿は目を引きつける力を持っている。一着でゴールするところでこちらはただテレビを見ているだけなのに、感じがきわまってきて、興奮しているのだった。テレビで高橋選手の練習風景など見ていたから、よかったなあ、という思い。夜、彼女へのインタビューを見ていたら、10万の観衆の声援の中に一人で走り込んでくるというイメージを監督としっかりと作って持っていた、と答えていたのを聞いて驚いた。練習ってそういうことだったのか、と思った。そんな自分を主役にしたイメージなんて、思ったことなかった。そういうイメージを持たなければ、それは実現しないということなのだろう。その夜、4-0で負けていた試合を、9回裏に2本のホームランで逆転勝ちして、リーグ優勝を決めた読売巨人軍の選手たちも、そういうことをイメージしていたんだろうか。

 先週あたりから急に涼しくなった。人に会うと、挨拶言葉に「涼しくなりなりましたね」が出てくる。夏の暑さにかなり堪えたということ。その暑さのせいか、今年薦田さんから貰った朝顔がよく咲いた。7月の始めに送られてきてから、連日、一日も欠かさず、三つか四つ、咲き続けている。9月も終わりに近づいて、初めの頃咲いた花は種を実らせて、殻を弾いて散らせている。その傍らで蔓を伸ばし、新しい蕾が出来て花を咲かせる。初秋の朝顔はまた別の風情がある。それを楽しむという毎朝。弱まった日差しに懐かしが増してくる。






2000年9月18日

 AthlonマシンをPentiumマシンに作り変え。

mainboad
 箱からMatherBoadを出す
cpu温度計
 通常のCPUの温度
cpu温度
 急激に上がったCPUの温度

 パソコンのことになると、どうしてこんなにも熱心になるのだろうと自分でも呆れる。DVビデオの取り込みと出力で起きるトラブルがマーザボードとCPUによるのではないかと思い至ったら、交換しなきゃと思い、もう直ぐに買いに出かけてしまった。他のことが頭からすっぽりと消えてしまう。パソコン店のパーツ売り場でウインドウに並べられたマザーボードとにらめっこしている。Pentium III用のマザーボードとして、新しいインテルのチップセット「815」が乗っているのを買おうと思ったが、グラフィックカードがオンボードになっているのでやめにした。持っている「Spectora8400」というグラフィックカードを使いたいからだ。で、結局、「VIA694X」というチップセットが乗っているASUSの「CUV4X」というマザーボードにした。買ってきて、早速Athlonが付いているマシンをばらして、Pentium IIIを取り付ける作業に取りかかった。

 パソコンの組み立ては、パーツを差し込んでネジで留めるだけだから簡単だ。その差込みにちょっと神経を使う。ハードディスクが3台、PCIスロットに4枚もカードが差してあるマシンだから、抜くときにメモを取った。特にハードディスクのケーブルの差し間違えがないように気を配った。パワースイッチやハードディスクが作動しているときチカチカ点灯するLEDなどのコネクターの接続にも神経を使う。老眼には見にくい細いピンで、マザーボードによって配置が違う。CPUの作動スピードを規定のスピードより上げて使うということも、マザーボードのディップスイッチの切り替えで出来るが、そんな必要はないから、それはオートに設定した。ケースの蓋を取り外してから、電源スイッチを入れるまで、およそ2時間ぐらいだった。パーツが揃っていれば、パソコンの組み立てって、1時間もあれば出来てしまうということ。

 電源を入れて、Windows2000が完全に起動するまで、各種のドライバーは全部入れ替えなければならなかった。CPUとマザーボードを交換すると、BIOSの設定だけでなく、ドライバーも入れ替えなければならないというわけ。それをやって、いよいよ「DVRaptor」を起動して、DVの動画の取り込みを試みた。オー、スームズに取り込んでる!1分余り取り込んで、それをDVテープに録画してみる。綺麗に、デッキからデッキへ録画したのと変わらないように録画できた。CPUとマザーボードの交換は成功だった!!よかった。なるほど、「DVRaptor」の箱に書いてあった通りに、MMX Pentiumマシンに取り付けていれば、何のトラブルもなかったということだ。

 さて、取り込みと出力がうまく行って、これで出力すれば大丈夫、綺麗に行くと分かって、DVコーデックで取り込んだ動画ファイルを「MediaStudioPro」でDVRaptorコーデックに変換してみようと試みた。ファイルの変換が始まると、ポワンポワンと警告音が鳴って、ディスプレイの画面にCPUの温度を知らせるグラフが出てきた。マザーボードに付属しているユーティリティソフトが働いて、CPUのオーバーヒートを警告しているのだ。CPUが熱くなりすぎて危ないよー、というわけ。グラフを見ると、通常で40度Cぐらいの温度が100度Cを越えている。BIOSで設定すると、このユーティリティソフトは水色の限度線を越えると、画面に姿を現し警告するようになっているらしい。これで分かるように、ビデオデータの処理がCPUに大きな負担を与えるということだ。CPUって普段は見えないところで働いているわけだが、こうやってグラフになって働き具合が見えると、近い感じがしてくる。見えるといえば、Athlonマシンであの画面に現れたブロック型のモザイク模様は、CPUとチップセットのミスマッチで起こったことには違いないが、それがデジタルの領域ではどういうこととして起こっているのか、そのことについてはわたしはまだ理解出来ていない。



2000年9月17日

 パソコンでのビデオ編集がどうも、、、、。

>>

ビデオ編集画面
 ビデオ編集画面
モザイク模様
 画面に現れたモザイク模様
もっとひどい モザイク模様
 画面に現れたブロック型のモザイク模様

 この夏は、いろいろなところに行って、DVテープもわたしとしてはけっこう廻したので、編集して遊んでみようと、デッキからパソコンに取り込んでみた。ところがどうもうまく行かない。先ず、取り込む段階でジグソーパズルにあるようなブロック型のモザイク模様が僅かに出た。それを、今度はDVテープに録画して戻したら、一層ひどいブロック模様になった。一体、これは何が原因なのか。

 使ったマシンは、家に何台かるうちの、チップセットに「VIA VT8371」を使った「EP-7KXA」というマザーボードに CPUの「Athlon」750MHzを乗せた自作機。それに、ビデオファイル取り込用のハードディスクとして、RAIDカード「FASTTRAK66」を付けて、SeagateのUltraATA/66対応のハードディスク2台をストライピング・モードのRAIDに繋いである。OSはWindows2000。メモリは261MB。DVキャプチャーカードは有名なCanopusの「DVRaptor」、その付属のソフト「RaptorVideo」で取り込みと吐き出し、「MediaStudioPro」で編集しようといういうわけ。作業環境としては悪くないと思う。

 ところが、これでSONYのデッキ「WV-DR5」から動画をキャプチャーして行く過程で、速いパンニングの画像を「RaptorVideo」で取り込んでいると、取り込みウインドウに「蚊紋ノイズ」が出た。そうして取り込んだ動画を、パソコンから出力 してDVテープに録画すると、ブロック状に画像が崩れる。ところが、これらの取り込んだAVIファイルをWindowsの再生ソフト「MediaPlayer」で再生してみても、ちょっとぶれるところがあるが、ブロック模様など出ずに綺麗に再生できる。そこで、先ず、このブロック模様の原因は出力するときのデータの転送が遅れるからかと思って、その転送レートを調べた。Canopusのホームページを見ると、4.5MB/秒あればいいと書いてあった。そのサイトからテスト用のソフトをダウンロードして、RAIDに繋いで、キャプチャー用にしているハードディスクのデータ転送レート調べたら、23MB/秒で十分条件を満たしている。転送が遅れているためでないことが分かった。

 とすると「DVRaptor」とCPUの相性の問題か、と考えた。というのは、「DVRaptor」の箱に「MMX Pentium200MHz以上のCPUを持つPC/AT互換機(ソフトウエアプレビユーモードでの使用時にはPentiumII400MHzまたはCeleron466MHz以上)、ただしこの条件に該当するすべての機種での動作を保証するものではありません」と書いてあったからだ。この「MMX」というのが引っかかるところ。 七月に読んだ「CPU革命」という本にIntelの「MMX」とAMDの「3DNow!」のことが書いてあったのを思い出した。「MMX」はIntelのCPUのマルチメディアに対応した命令で、つまり量の大きい画像データを別に演算させるプロセスというこで、AMDのAthlonもこれを搭載することになっているらしいが、AMDの方は別に3Dグラフィック用に「3DNow!」という命令も追加しているという。「DVRaptor」がわざわざ箱に「MMX Pentium」と断っているところに引っかかる。ソフマップのパーツ売り場のお兄さんは、チップセットとの相性ということもある、といっていたから、一概にCPUのせいには出来ないとは思うけど。そこで、CPU交換の前に別の「取り込みカード」で試してみるか、ということになった。

 渋谷のパソコン店に行ったら、台湾製の「KVX-100」というIEEE1394ホストアダプターがDVビデオ取り込みも出来ると書いて売っていたので買ってきた。これには「VideoWave III」という取り込み編集ソフトが付いていた。取り込んでみるみると、やはりブロック型のモザイク模様は出る。取り込んだ動画ファイルを出力すると、テープ上にモザイクは出ないが、動きが飛んでカクカクっとした動きなる。満足できない。その上困ったことには、このソフトで取り込んだファイルを編集ソフトの「MediaStudioPro」が認知しないのだ。動画としてAVIファイルには違いないが、DVのコーデック(codec)が「SmartDV encoding」というもので、他のアプリケーションに通用しない。取り込みもよくない、コーデックが他の通じないとあっては、簡易編集するだけならいいが、まあ使い物にならない。無駄になったが、お蔵入り。

 DVのコーデックが一般的なコーデックで取り込めるIEEE1394カードはないかと、再びパソコン店に行った。今度は日本製のを探した。IODATAの製品が殆どだったが、敢えてメルコの「IFC-IL3/DV」というのを買った。早速取り付けて試みた。これでは「MediaStudioPro」のキャプチャーツールでも、付属ソフトの「MediaStudio4」でも、Windowsで一般的な「MS DV」(DV Video Encoder)コーデックで取り込みと録画が出来た。しかし、ブロックノイズは「KVX-100」よりひどく、録画したテープを再生すると、コマが飛んでしまうのだった。やっぱり駄目かと、がっくり。こうした比較で、やはり「DVRaptor」が一番いいようだ。残された道は、これを使うために、CPUとマザーボードを交換して、AthlonをPentiumIIIに換えてみるということに心を決めた。迷う心と決める心、こういう心の揺らぎがパソコンにはつきまとう、そして深入りして行く。

 このトラブルで、パソコンでのDVの取り扱いがわたしなりにちょっと分かり掛けてきた。パソコンでビデオ編集するとき、ファイルの圧縮の仕方、つまりコーデックと、AVIとかQuikTimeとかというファイル形式とが問題なる。同じファイル形式でも、コーデックが違うと開くことも出来ない。時にはそのファイルを認知すらしない。そのコーデックも、ソフトコーデックとハードコーデックとはあって、ハードコーデックだとそのハード、つまりキャプチャーするのに使ったカードがないとテープに出力することが出来ない。まあでも、大抵は同じパソコンで出し入れするのだから、余り気を遣うことはないのだが。だが、しかしだが、今のわたしの場合は、そのカードとCPUかマザーボードかの相性が問題になっているというわけ。動画ファイルは、データが多いために、CPUとバスの転送レートに負荷が大きくもろに掛かってくるということを実感した。

 さて、6月のパソコンの作り替えでPentiumIII600EBが一個、余っていたから、それを使えばAthlonマシンをPentiumマシンに作り替えることが出来る。今度はそのマザーボードを買ってくることにしよう。お金がかなり速い転送レートでパソコン店へどんどん流れ出ていく。



2000年9月9日

 札幌から東京まで、車窓風景を見続けた。

大通り公園
 札幌、大通り公園
有珠山
 有珠山付近か。
雨滴
 激しい雨
川
 八雲の辺り

 9月1日に「NPO東川フォトアーカイブス」の設立に立ち会った後、2日と3日の二日を掛けて、札幌から東京まで列車の旅をした。もっぱら、車窓風景を見るため。青函トンネルも初めて潜った。札幌で泊まった札幌第一ホテルを10時前にチェックアウトして、たすき掛けにバックを背負い、右手にDVカメラを持って、大通り公園から札幌駅までゆっくり歩いた。蒸し暑くて、汗びっしょりになる。コーヒーショップに入って汗を引っ込めた。周囲の席の人たちの話が聞こえるが、何を話しているのか、分からない。トイレに行って、ホームに出て、11時札幌発函館行き「特急スーパー北斗10号」のグリーン車の窓側の座席に座った。一列3座席のゆとりのあるスペースだ。車内では、若い女性乗務員が腰を屈めて切符拝見というのが珍しい。

 北海道から本州、東京へと列車で旅するのは、年齢から、今回が最後になるかという思いがあって、車窓風景をしっかりと見届けようという心構え。わたしは、大袈裟に思いを盛り上げるのが好きなんだ、ということ。というわけで、発車してから下車するまで殆ど車窓から目を離さず、撮りたい気分に任せてDVカメラで撮影するという旅になった。特急は速くて、線路脇の家々はどんどん流れていく。遠くの眺めも5分と持たない。つまり視覚的に変化が激しく、撮影をしようと思うと全てが瞬く間に通り過ぎて行き、時間が経つのがあっという間だった。帰ってから、DVからパソコンに静止画で取り込んだが、殆どのコマが流れていて、シャープな画像が得られなかった。車窓風景をシャープに撮るのは、シャッタースピードを変えらっれるカメラじゃないと駄目ですね。

 札幌から苫小牧を経て函館へ。千歳空港付近で着陸する飛行機を撮ろうとしたが、カメラのスイッチが間に合わず失敗。以前、伊達紋別に来たことがあるから、千歳線の風景には見覚えがあるような気がする。しかし、そう思うだけなのかも、と思い直す。苫小牧辺りのまばらな人家に北海道を感じる。東室蘭を過ぎて左側の車窓に海が見える。カメラをわたしの座席の反対側に廻すと、車内が暗いから海の風景が露出オーバーになるので、外に露出を合わせて窓際の婦人をシルエットにして撮る。伊達を過ぎる頃から、有珠山が見えるはずだと、山影らしきものを探すが、曇っていてよく分からない。眺めは直ぐに木立か切り通しになって遠くが見えないのだ。それでも、これが有珠山かと見当を付けて裾のらしいところを撮った。
 長万部辺りから雨がひどくなってきた。黒い雲が立ちこめて、遠いところを旅しているという気分を盛り上げてくれて、申し分ない心地になった。雨滴が流れる窓ガラスはいいですね。と、思う間もなく、大沼公園を抜けて、函館に着く頃には青空が出ていた。函館には2時過ぎについて、向かいの急行に乗り換え。

 

函館
 函館の町
海底へ
 青函トンネルに入る前の木古内付近
海底240m
 車内の海底240mの表示
竜飛
 青函トンエルを出て、竜飛付近

 函館からの急行は「快速海峡8号」というのだが、実は別に「ドラエモン号」という名前が付いていた。青塗りの昔ながらの客車にドラエモンの絵が描いてあり、車内には漫画に登場するキャラクターや、大きく伸ばした漫画のコマが吊してあって、発車すると、これからドラエモンの案内で海底探検にいくというドラエモンの挨拶が放送された。わたしが持っていた指定席券の車輌は客が多い上に、席が入り口近くだったので、前の方の誰も乗っていない車輌に移った。車掌に席替えを頼むと、この車輌は海底見学指定車で、海底駅から客が沢山乗って来るかもしれないから、その時は席を移ってください、と言われた。列車は海岸線を走り、木古内から幾つかの短いトンネルを潜って「青函トンネル」に入った。トンネルに入ると、車内に掲示されたトンネルの断面図に、5キロ進む毎に赤く点灯して25キロ置きに海面からの深さが表示された。

 20分ほどで吉岡海底駅に到着。前の方の一輌だけのドアが開いて、見学指定券を持っている人だけが乗降できるらしい。何人かの人が降りて、何人かの人が乗ってきたが、わたしの車輌には子供連れの夫婦一組しか乗ってこなかった。駅にはドラエモンの何かが飾られているらしいようだったが、見学するって何を、と思った。帰ってからWebで調べたら、「吉岡海底ワールド」と名付けて、ジオラマやメモリアル・アートというものがあるらしい。この夏には、そこにドラエモンも加わったというわけか。吉岡海底駅を出て間もなく、一番深い240mの表示が出た。車内はコウコウという列車の走る音のみで何の変化もいないが、わたしは何かひやりとする思いを持った。それから竜飛海底駅を通過し、しばらくして青函トンネルを出た。車窓からの眺めが北海道とちょっと違うという印象。眺めがやわらかい。これも思いのなせるところか。

青森湾
 青森湾の眺め
青森
 青森駅付近
盛岡
 盛岡駅を出て
田圃
 東北の田圃

 列車が一時停車して、窓から田圃の中に一本だけ生えた樹木が見える。速い雲の間から差す日差しが、スポットライトを送るようにその樹木の上を通過していくのを、延々と撮ってしまった。葉裏を返して枝を揺らす樹木が懐かしい感じだ。田圃のあぜ道なんて、もう随分歩いていないなあ、と思う。列車が動き出すと、何となくさよならを言ってしまった。左手に青森湾を見て、遠く霞んで見える下北半島を望んで、家々の間近を走って、青森に着いたのは5時近かった。

 これまでに青函連絡船で青森から函館に渡ったのが一回、函館から青森に来たのが一回、その二度の航海の記憶は部分的に鮮明に残っている。青森から函館に行くときは、かなり昔で、列車が青森駅に近くなったところで、赤帽が荷物を取りに来た。青森駅のホームから長いブリッジを渡って連絡船に乗った。わたしはデッキに出て、暮れていく青森湾を眺めていた。函館に着いたのは夜中だった。それから汽車に乗ったわけだが、北海道の何処に行ったか忘れた。当時、NHKのカメラマンをしていて、北海道には飛行機で何度も行ったので、ロケ地はいろいろでそれなりに記憶にあるが、そのどれが連絡船で行ったか忘れたということ。函館から青森に来たときは、明け方に青森に着いたが、霧の中に点滅していたブイの灯りが頭にこびりついている。死ぬ時って、そういう情景をを思い起こすのか、と思ったり。地下駅がイヴェントをやって「メモリアル」なんて言ったって、青函連絡船で渡って行った人々の記憶にはかなわないうだろう。

 あの長いブリッジは何処だったろうと思いながらホームのブリッジを渡る。ホームで立ち食いそばを食べて、「特急スーパーはつかり24号」に乗り込む。窓の外を見ると、公園になっていて、男女のふたり連れが散歩し、ジョギングの男が走っていった。公園の向こうのビルの上の電飾看板に灯がともって点滅し始めた。土曜日の夕方、あのふたりは今夜抱き合うのだろうか、それとも言葉だけか、そんな想像を予感しながらDVカメラを廻していたら、バッテリーが切れてこの日の撮影は終了。

 5時回って発車した列車は。野辺地、三沢、八戸、一戸を経て、7時過ぎに盛岡に着いた。野辺地辺りではまだ薄暗い中に風景が見えた。わたしは、地名を頼りにこの辺りに来た時の記憶を辿り始めていた。野辺地の記憶が一番強烈だ。というのは、下北半島の六ヶ所村に取材に来ていたとき、十勝沖地震に遭遇したのだ。朝方、畜産農家でこれからカメラをテストして撮影しようとしているとき、地震が来た。わたしは、その家の幼い男の子を抱えて外に飛び出して、牧草地を走った。地面が波打って、水たまりの水がチャプンチャプンと寄せては返している。ふと、何処まで逃げても逃げ切れるわけではないと気がつき、振り返りざま家のそばにいたお婆さんが目に入って、わたしは自分が抱きかかえている子のことを忘れて、その子の名前を叫んでしまった。お婆さんもわたしがその子を抱きかかえているのを見ているのに、家の中に向かってそこの名を叫び呼んだ。わたしはわたしで、その名を聞いて、あれその子はここにいる、と気づき、自分の慌て振りにも気がついたというわけ。そして、地震が収まってから、被害がなかったので大笑いになった。

 三沢空港からヘリコプターで下北半島を撮影したことがあるなあ、とか、日本のチベットといわれた北上高地の寒村で、集団就職する中学卒業生たちの出発風景から上野駅で中小企業の経営者に引き取られていく姿を撮影したことがあるなあ、などと、窓ガラスの外の闇と家の灯と、そのガラスに映る車内とを眺めながら、わたしは思い出に耽っていた。彼ら彼女らはもう五十近い年齢になっている筈。茶髪の息子娘たちの親たちだ。電話のかけ方、それが彼ら彼女らの中学三年の最後の授業だった。今では、その子どもたちが携帯の見えない線にがんじがらめ。わたしには「携帯関係」というものがない。まあ、車窓の風景を眺めづけるなんていうセンチメンタルジャーニーをやってられるわけ。盛岡には7時過ぎに着いた。駅前には何もなかった、という印象だったけどなあ、と思いながら、駅の隣の歩いて1分の「ホテルメトロポリタン盛岡」に泊まった。

 9月3日は7時に朝食、8時半ごろチェックアウトして、雨の中、軒伝いに歩いて駅に行き、窓側の座席を取る。喫茶店でミルクティーを飲んでいたら、隣の席のネクタイしたお父さんがズボンにこぼしたケチャップをごしごし擦っているのを見て同情する。年を取ると、どういうわけか、よくこぼすんだ。9時過ぎ発の新幹線「やまびこ6号」に乗る。発車してしばらくすると、田圃が見えてくる。田圃って、わたしにとってやはり原風景の一つ。農村生まれではないけど、小学生の時、集団疎開、縁故疎開と一年半は、田圃のあるところで様々な辛苦に遭った。わたしの人間への信頼不信は田圃のあるところで育てられた。田植えもしたことあるよ、田の草取りもしたよ、稲刈りもしたよ、田圃の水も飲まされたよ、イナゴを掴まえてきて醤油で煮てたべたよ。新幹線は速い。たちまち晴れ渡った仙台に到着。仙台からは山形に行く仙山線が出ている。わたしの思い出は、山形から二つ目か三つ目の赤湯温泉へ飛ぶ。そこに小学校三年生で集団疎開して、栄養失調になり、東京に連れ戻されたその翌日から空襲が始まり、翌年焼け出され、埼玉、福島と転々疎開したというわけ。列車が東京に向かって上って行くに従い、記憶はどんどん過去を遡りますね。

那須
 那須高原の眺め
送電線
 送電線のある風景
上野駅付近
 上野駅付近
日比谷
 日比谷付近

 東京大空襲で焼け出されて、二本松から三春の方に入った小浜というところに、わたしに一家は疎開していた。そこで終戦を迎えた。農家の小父さんは、都会っ子だからわら草履では痛いだろうと、桐の木を切って下駄を作ってくれた。でもそれ履くと、地元の小学生は「すかしている」といじめた。一人で山道を歩く孤独を覚えたのも、この土地。新幹線は福島を過ぎると小さな山の間を縫って、幾つもの短いトンネルを潜る。その山間のどこかにわたしは疎開していたが、確かな場所は分からない。小浜町字成田、地名は頭にこびりついている。赤湯には、上ノ山の小川プロを訪ねた折りに立ち寄ったことがあるが、小浜には一度も行ってない。

 仙台、山形、郡山辺りには何度も来ているから、郡山を過ぎて、黒磯、宇都宮、そして大宮へという東北本線沿線の風景の印象はおおよそ覚えている。わざわざ鈍行に乗って景色を見るということを何度かやっている。鈍行は樹木と草と家と人が間近に見えるのがいい。鈍行だと思いが生活空間に拡がっていく。晩秋の頃、白河の近くだったか、柿の木に一個、枝に残された 渋柿を見たのを覚えている。しかし、新幹線では人の姿が見えない。人家が近ければ防音壁が立てられ、景色が見えるところには近くに人家はない。そして、人の姿を確認するには速すぎる。従って、目は特徴のあるものを求めることになる。遠くの山の連なりとか、林立する送電線とか。ありふれたものは目に残らない。目は固有なものを見分ける力を失っていくというわけ。

 関東平野のはいると、新幹線の防音壁が車窓の風景の邪魔をする。遠くの方しか見えない。利根川はどれだろうと探す有様だった。関東平野を走っていて、利根川が分からないなんて、そんな!という思い。東北自動車道を走ったときも、利根川を見損なったことがあった。視界から消え、イメージから消えて行く。見慣れた風景というものがそんな風にして出来上がっていくのだろう。荒川を渡ってからの、東京駅までの風景というのが、どうもよく頭に残っていないので、今回はずっとDVカメラを廻すことにした。平べったい屋根が遠くまで続く中に、そう高くないビルが点在する風景だ。上野近くなると、ビルが多くなり、今回東北新幹線の車両基地を確認した。と思う間もなく地下に入り、殆ど全く人影のない上野駅に到着した。それから、神田のどの辺りで地上に出たか、また確認できないまま東京駅に着いてしまった。まだ、12時前だ。盛岡を9時過ぎに出て昼前に東京に着いてしまった。今度は、もうちょっとゆっくり、駅弁を二食ぐらい食べて、やっと着いたというような旅をしてみよう。



2000年9月5日

 「NPO東川フォトアーカイブス」設立に立ち会う。

飛行機の窓から
 北海道へ行く飛行機の窓からの眺め
東川町の風景
 東川町の風景
東川町立文化ギャラリー
 東川フォト・フェスタ受賞作品が
 展示されている町立文化ギャラリー
東川商工会館全景
 東川町商工会館

 8月31日の午後、Moleの津田さんとパラパラ研究所の大日方さんに同行して、羽田から全日空機に搭乗し、 北海道の東川町へと向かった。そして翌9月1日、その東川町の東川商工会館の一室で「NPO東川フォトアーカイブス」の設立に立ち会った。「NPO東川フォトアーカイブス」というのは、今年の10月で閉鎖される東京・四谷にある「モール写真図書館」の写真集を行く行くはすべて引き取って、写真に関するあらゆるデータベースを作り、現地とWebとで同時公開し、写真文化に寄与しようという目的の「特定非営利活動法人」として立ち上げられた 組織。北海道の東川町は15年前に「写真文化によって町づくりや生活づくり」をするという「写 真の町宣言」を行い、毎年7月に「東川フォトフェスタ」を開催し、また「空飛び写助」というサイバーフォトギャラリーを開いて、ユニークな町づくりをしている町だ。その町の商工会館の一部を借りて、写真のデータベースを築きあげようというわけ。

 羽田から1時間半ほどで、4時過ぎ旭川空港に着いた。わたしは、離陸して着陸するまでちょっと後ろ目になった飛行機の窓から、ずっと外を眺めてDVカメラで撮影したりしていたので、首が痛くなった。空の眺め、雲の眺めはいつ見てもすばらしい。31日は結構雲が多かったから、地上は殆ど見えなかった。見えても、どこだか分からない。たとえ地名が分かったとしても、行ったことがない所が殆どだから、大して意味はないが、でも、いつも「何処だろう」という意識が働いてしまう。確かに、「竜飛岬」は見えた。三日後、その海底を急行電車で潜ることになっている、と思うと、何か感動的、といってもその思いは他人には分からないだろう。その自分の顔が強い西日を受けて座席背後の液晶ガラスに写っていたので、DVカメラで撮ってやった。

 旭川空港から東川町は7キロ、途中、その夜泊まる「ホテル花神楽」に荷物を置いて、東川町の今年の「フェスタ」の入賞作品が展示されている「文化ギャラリー」へ行った。津田さん大日方さんが挨拶している間、わたしは作品を見ていた。一通り挨拶して、「NPO東川フォトアーカイブス」が借りようとしている「商工会館」を見てから、3人で町の飲み屋の「利尻」に行って、ビールを飲み、わたしはほっけの焼いたのを頼んだ。北海道のほっけは「別物の」美味さ、というのがわたしの記憶にあったから。その記憶は裏切られなかった。そしてホテルに戻ってまた夕食となったが、これが量が多く、食べきれなかった。

 翌9月1日、午前中に町役場に行き、「NPO東川フォトアーカイブス」について津田さんが助役以下町の幹部の人たちに説明するのに立ち会った。それから、ラーメン屋の「蝦夷」に行って本場北海道のみそラーメンを食べて、「商工会館」の内部を見た。1時半過ぎて、その一室で、「NPO東川フォトアーカイブス」の設立に賛同する札幌から来た人たちや東川町の人たちが集まって「設立総会」が開かれた。最後に全員の拍手で、「NPO東川フォトアーカイブス」はめでたく設立したというわけ。夕方、わたしと大日方さんは、札幌から来た露口さんと一緒に仙北さんの運転する車に同乗して札幌に向かった。暮れかかる頃、札幌に着く手前で、激しい雨になった。立会人の役を済ませたその夜は札幌に泊まった。

 先月の29日に「シアター・イメージフォーラム」の内覧会に行き、9月1日に「NPO東川フォトアーカイブス」の設立に立ち会って、わたしの今年の写真展の写真に写っている「イメージフォーラム」と「Mole」の行く末を見届けたという感じになった。「NPO東川フォトアーカイブス」の東京事務所は、写真展を開いたギャラリーが閉鎖された後の同じ場所に置かれ、そこから写真のさまざまな情報を東川町の本拠に送るという。イメージフォーラムも、Moleもこの9月から、今までとは違った新たな展開になる。わたしがつき合ってきた、いわゆる「カウンターカルチャー」のベースの変貌ということだ。両方とも「企業」として、政府の経済政策の流れに乗って、金融機関と独自な関係を保ちながら展開した結果のように見受けられる。いずれも、自分たちの主体的な活動で切り開いた道を進んでいることは確かだ。そして、その経済基盤が「企業」としての形態をくっきりと持つようになったということだ。イメージフォーラムもMoleも映像表現の一隅を支えている。その基盤の新た展開というわけ。  

 

 

   








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