C言語が一応終えて、次はOpenGLでグラフィックス。
「OpenGLプログラミングガイド」 |
先週で、春口先生に教えて貰っている「ザ・C」が終わった。これで一応、C言語についての学習は終わったことになる。と言っても、C言語でのプログラミングはこれから。これでようやく、春口先生の専門の「CGグラフィックス」をC言語で学ぶ、という門に入ることができたというわけ。プログラミング言語というのは、人間に近い言葉で直接コンピュータに話しかけて「命令する」言葉。その話し方が少し分かった。コンピュータに話しかけるというのは、メモリにどういう型のデータを入れて、それをどういうように動かすかをコンピュータに指示するということなんだ。メモリの場所と内容、それを動かす手順(プログラム)を決める、それがプログラミングというわけ。C言語を一通りやってみて、それが実感として分かってきた。メモリのある場所の内容を変えたりすることを「メモリに触りに行く」という。「触らせない」「触る」、C言語はそれができる。説明を聞いていて、「なるほど、うん、なるほど」と思えるようになったが、それがわたしにはまだ自由にできない。これから、というところ。
コンピュータに直接話しかけるというところで、足し算をした結果を出せとか、こういう文字を示せ、という場合は「コマンドライン」(Windowsマシンだと「MS-DOSプロンプト」、今のMacにはコマンドラインはない)で十分だが、グラフィックスになると図形や絵を直接表示させなくてはならない。ということは、グラフィックプログラミングをやるということは、OSとグラフィックを扱うハードウエアとの関係に入っていく、ということにもなるらしい。「C言語でグラフィックスを学ぶ」という本を何冊か買ってみたが、ハードウエアに依存するところが大きくて、今のわたしのマシンではそれらの本に書いてあるやり方が通用しないことが分かった。つまり、C言語でグラフィックスプログラミングをやろうとすれば、それなりの「環境」が必要、ということ。春口先生が「これでやりましょう」といった「OpenGL」は、グラフィックスプログラミングをやる「一つの環境」というわけ。
昨日11月28日は、正方形を描いて表示するというプログラムとRGBの色が頂点に来るプログラムを習ったが、それがC言語の関数で出来る。つまり、その「関数」がコンピュータに話しかけ命令する言葉で、それを操って絵を描いていくということになる。「OpenGL」は3Dやアニメーションをサポートしているから、面白いことが出来るかなあ、という気がする。
DVハンディカメラで撮った「EBIZUKA WORK」ビデオのパソコン編集。
MediaStudioProのビデオ編集画面 |
先月末から今月に掛けて、8月に瀬戸内海の島で海老塚さんの彫刻作品を撮影したデジタルビデオをパソコンで編集した。映像作品とまでは行かなくても、まとまった印象の海老塚さんの作品紹介ビデオになれば、と考えてのこと。片手で持てるDVカメラの撮影は、16ミリフィルムカメラの撮影とは全く違う。フィルムでは5秒から、長くても20秒ぐらいのカットで切っての撮影となるが、DVカメラだと1分から2分、更に5分10分と長いカットで撮影してしまった。これは、ロケの補助的な記録だからと思う気持ちでえんえんと撮ってしまったわけ。その違いが、ずっとフィルムで映像作品を作ってきたわたしには生々しく感じられて、これを乗り越えるということが、今度の映像作品制作の大きなポイントになると思えるようになった。そこで一先ず、海老塚さんの作品だけ編集してみた。「EBIZUKA WORK」ビデオの誕生。
パソコンでのビデオ編集は、従来なら少なくとも2台のデッキ、ABロールで編集すると3台のデッキとコントローラーが必要だったのが、パソコンと1台のカメラかデッキがあればできる、というわけで、非常に便利になった。DVだとアナログと違って、IEEE(iLINK)で取り込むと制御信号も一緒に流れるから、パソコン画面でカメラやデッキを自由に操れるので、これも便利。だた、パソコンに取り込むと、テープ上では電磁信号だったものが、コンピュータのファイルになる。そのとき、当然のことながら「ファイル形式」と「圧縮形式」とによって、いろいろ形式のなファイルになるわけ。DVカメラから取り込んで、DVカメラに録画しようとするとき、サイズとか圧縮形式がDVに合ってなければ、録画できない。DVカメラとパソコンは普及したが、この辺りの知識が普及してないから、取り込んで編集したものの、録画できないというケースが結構増えている。わたしも、この辺のことで随分と悩まされた。古いPC-98にアナログビデオ用の取り込みカードを差して取り込んだ、いわゆるハードウエア圧縮のムーヴィーファイルが、カードを取り外してしまったために、開くこともできずそのままになっている。最近でも、安いDV取り込みカードで取り込んだファイルは、わたしが持っている編集ソフトでは扱えないので、これもそのままになっている。わたしはようやく、圧縮にもハードとソフトでCODECに違いがあり、そのCODECにもいろいろあるということが分かり掛けてきたところ。でもその中身の違いは分からない。
現在、わたしはPentium3を乗せたWindows2000Proの自作マシンに、DVRaptorという取り込みカードをつけて、その付属ソフトでDVデッキから取り込み、「MediaStudioPro6.0J」と「Premiere5.1J」で編集している。これも、DVRaptorとAthlonの相性が悪くマザーボードとCPUを取り替えなければならなかった。今では、取り込みも録画もうまく行っている。そして、今回の編集には「MediaStudioPro」を使った。ビデオ編集は、元になるムーヴィーファイルを「ソース」としてアプリケーションに取り込み、そこから使うところのイン点とアウト点を決めて、ドラッグ・アンド・ドロップでカットを切り出して、「タイムライン」という横帯状のウインドウに並べて行き、フェイド・インやワイプというようなカットつなぎの効果を入れて全体を仕上げる。そのつなぎ目の効果を生かすための処理であるレンダリングに時間が掛かる。そして、その感じを見るためにプレビューして見る。わたしのマシンでは、このプレビューでデッキに接続したモニターに映し出されるので、そのままデッキの録画ボタンを押せば録画もできた。操作は至って簡単。問題は、長々と撮影してきたDVの映像をどう編集するか、ということ。
ハンディなDVカメラで廻すと、カットが長くなるというのは、16ミリフィルムのようにアングルでカットを決めるというより、対象に向かう気持ちで撮影中に体を動かすからだということが、今回分かった。つまり、対象を視角で捉えるというより、対象に迫る身体の動きで捉えるということになる。撮影しているときも、知らず知らずのうちにダンス・パフォーマンスをやっているような感じだった。従って、編集する段になって、フィルムだと、カットを平面として重ねるということになるが、ビデオの編集だと、身体が移動する動線をつなぎ合わせたり、よじり合わせたりして流れを作るということになる。ここでは、フィルム編集の文法とは違うビデオ編集の文法があると思った。このことはこれから考えて行こうと思う。
今回は、瀬戸田の海浜に置かれた「空/海 YURAGI」と、沖家室島の集落の井戸を利用した「水と風の光景」の二作品のビデオを編集した。「空/海 YURAGI」は小さな元フェリーの船着き場だったというところに鉄板と鉄の塊を組み合わせた彫刻作品。フィルムのラッシュでは、陸側から見るという視点で撮影されているが、ビデオでは波打ち際から作品を見上げるという身体の動きで捉えるところから始まっていた。この違いに、撮影した自分でもびっくりした。カメラが軽いし、ファインダーを覗かないでモニターで見ることができるので、水面に近いところから撮影ができた。その上、露出がオートで決まるから、見上げた彫刻の裏側に近づくと、シルエットの鉄板の裏側の錆が鮮やかに見えてくる。こういうダイナミックな光の変化は、フィルムでもできないことはないが、ピントと露出をレンズのリングを同時に廻して変えて行かなければならないからかなり難しい。それが、カメラ任せでこんな簡単にできてしまうとは!、というところ。撮影は、午後から翌日の昼前までやったから、その時間を生かすという編集にした。編集して何度もビデオの映像を見ているうちに、その彫刻のイメージが変わってしまった。海老塚さんの彫刻を評して、東野芳明氏が「見る」という言い方でなく、別の言い方があるのではないかと書いていたのを思い出した。16ミリフィルムでは見るという視点だが、DVカメラでは接近して触るに近い感じ方になっていた。
沖家室島の作品「水と風の光景」では、井戸の上に置いた鉄板に空いた孔から井戸の中を覗くというところに焦点を置いての編集となった。これも二日に渡っての撮影だったが、晴れと曇りの日となったために、孔を覗くという行為を軸に旋回する動線を二回繰り返して、渦を巻くような流れに編集した。孔を覗くというのが、なかなかうまくカメラに撮れない、写ったかと思うと直ぐに外れてしまうというアクションが緊迫感を生んでいた。それに、捨てられた手押し車に絡んで咲く朝顔の花から、井戸が井戸端会議の場だったと思いつき、それで10分の長回しで見に来た人を捉え、井戸が人の言葉を呼び寄せる、といった具合に編集することもできた。こういうのって、フィルムとは違う。そこで、こういうシーンはフィルムに取り入れたいという思いも出てくるが、同じポジションのカットがフィルムで5分も持ち堪えられるか、ということが問題になる。
PC-110に付けたソニー製ECM-S930C |
AGCが働くソニー製ECM-HM1 |
編集中、それより問題になったのは、ビデオのカメラノイズ。静かな島の集落で撮影したカットに、一貫して「ジー」という高い小さな音が入っていた。最初はパソコンが置いてある部屋の換気扇の音かなと思っていたが、気になるので、換気扇を止めて再生してみて、カメラのモーター音だと分かった。バックノイズが要らないところでは、編集で音を消せるが、撮影の時の音を生かしたいとき、ノイズが入ってきて気になる。撮影に使ったカメラは、今年の三月末に買ったビクターの「GR-DVX7」。これまで、比較的ノイズの大きいところで撮影していたので気が付かなかったが、静かな島での撮影でノイズが浮き上がってきたというわけ。同じカメラを持っている人に聞いたら、やはり結構ノイズが大きいという。DVハンディカメラで撮るといことに面白みを感じてきたところだったので、ちょっとがっかりした。でも、別にマイクを付ければいいのかも、と思ったが、このカメラにはマイクの接続端子が無い。こうなると、わたしの悪い癖が直ぐに出て、別のカメラが買いたくなる。そして、遂にマイクが別に取り付けられるソニーのハンディカムの、この秋発売された「DCR-PC110」を、ボーナス一回払いで買ってしまった。気になるのはカメラノイズだったが、まあ何とか大丈夫だった。しかし、別売のマイクを買って置いた方が無難と、ハンディカム用の小型マイク「ECM-S930C」を買ってきて、取り付けて見たら、これが結構カメラノイズを拾ってしまう。またもや失敗。それじゃ、もう一つの「ECM-HM1」はどうか。こちらは、インタビューマイクといってケーブルが延ばせる。そしてカメラのインテリジェントシューに付けられる。また買いに行って来て、取り付けて録音してみると、カメラノイズを拾ってない。何度か取り付けたり外したりして、試しているうちに、マイク接続端子に繋ぐ「ECM-S930C」マイクはカメラノイズを拾うが、インテリジェントシューに取り付ける「ECM-HM1」マイクは拾わないことが分かった。それも、カメラを廻したまま取り付けてみると、取り付けた瞬間はノイズを拾うが、直ぐに減衰する。つまり、「DCR-PC110」の内蔵マイクとインテリジェントシューはAGC(automatic gain control 自動音量調整)が非常に鋭敏に働くということが分かった。
久し振りにフランス映画を見た。
フランス映画「倦怠」のチラシ |
ロケから一週間経った昨日、イメージフォーラム付属映像研究所のDクラスの16ミリ実習は、ラッシュプリントを見て編集・講評と終了した。2時半から撮影したままのフィルムのラッシュを見て講評。何処が撮影失敗で、何処が成功か、また撮る前のイメージと上がってきた画像の違い、その落差を指摘するなど。それから、各班が3時半から9時ごろまでおよそ5時間掛けて、3、4分に編集。「穴」「タム」「回人」「愉楽の腔」「たれ流し」の5本の作品ができた。
「穴」は河原の地中に身を埋めて、川の水を吸って10年生息して来た男が、水が汚れてきたので土の中から身を起こすと、傍らに埋もれていたバイクを見つけ、近親感を覚えて、バイクと一緒に並んで再び河原の土に身を埋める、という話。
「タム」は、河原に散歩に来た男が、そこに埋まった自分の死体を見つけるが、驚きはするものの、無関心を押し通すという話。
「回人」は草の中から現れた男の手や顔やめがねが勝手にくるくる回り出すという全編人間アニメーションの作品。
「愉楽の腔」は、半裸で立った男の体内を女の足がまさぐり歩くというイメージを、川原に向かって開いている下水道の中の水面に、外界が綺麗に反映している映像で構成した作品。
「たれ流し」は、地中から現れた豚が溶解して液化し、その液体に世界が溶け、たれ流しになるという、豚の出現と溶解の部分をコマ撮りで撮った作品。
みんなカメラに振り回されてる。そして、また16ミリというので力の入れ過ぎ。でも、次の卒業作品に向かって、フットワークが軽くなるに違いない。どれもが、地中から現れるという発想を持っていたというのが面白かった。
さて、生徒諸君が編集している間、先生のわたしは近くの古本屋を見て歩いたり、シアター・イメージフォーラムで、今、上映されているアルベルト・モラヴィア原作、セドリック・カーン監督のフランス映画「倦怠」を見たりして時間を過ごした。青山の「中村書店」といえば、詩集の古本屋さんとして名高い。文学書が並んだ書棚を見て、昔の、つまり二、三十年前のわたしだったら、手にとって買いたい思ったであろう詩集や文学書が何冊かあった。しかし、今はその気が全く起こらなかった。自分が変わったのを感じないではいられなかった。ちなみにわたしの詩集の一冊あった。定価より高かったので安心した。
セドリック・カーン監督作品「倦怠」は、チラシの写真のようなセックスシーンの多い作品だった。大学の若い哲学教授が、セックス好きの若い女性に恋をして翻弄されるという作品。方や哲学教授は意識的人間、また一方の若い娘は身体的人間、この両者がセックスで絡み合って行くのが、パリの街を車で走る映像とセックスシーンで展開される。哲学教授は、自分を愛してくれるか、何故愛するのか、浮気の相手はどういう人間なのか、彼の何処がいいのか、などなど、彼女がなすあらゆることについて質問責めにする。いわば、言葉で完全に支配しようとする。まあ、言語至上主義者の代表者というべき人物。彼女は彼の質問に「あなたもかれも感じがいい。感じがいいということは感じがいいということなの。それ以外は分からない」と答えになっていないような答えしかしない。若い女性の方は、身体的な快感だけを求めて生きている人物。恋人の死も、父親の死も、一切関係ない、ましてや恋人の怒りなんてどうってことない、という身体そのものという存在。お互いが、それぞれの側面からすれば退屈な存在ということになる。言語のパラダイムと身体のパラダイムを乖離させると「倦怠」が発生するというわけ。その倦怠を乗り越えようとセックスの深みにはまって行く。
見ていて、いかにもフランス映画という感じだった。何でも言葉にしていかなければ気が済まないのが西欧人。その西欧人の意識の前に身体というものが顕れた。そこで、意識が身体にどう向かうか、という哲学的テーマが生じた。この映画はそのテーマを扱った作品といえよう。西欧流の、言葉に生きる者と身体に生きる者との「自己中」のぶつかり合いだ。セックスがその自己中を融和するということがなく、一層自己中の自己回転を速めていくという悪循環。やだねえー、こういうのって、と思いながら、その元になってる「自己」について、どうすりゃいいのかわからない。でも、その自己を動機にするというところが問題なんだ、というぼんやりした感じがあるが。
背高あわだち草と夕焼け。
多摩川の背高泡立ち草 |
夕焼けに染まる電車 |
イメージフォーラム付属映像研究所の16ミリ実習で、昨日の11月4日、二子玉川の多摩川河川敷でロケーションをした。5、6人が、ボレックス、アリフレックス、スクーピックと使いたいカメラで一組になって、200フィートのフィルムを廻す。短い話を作っての16ミリ映画制作。わたしは各班を回って撮影の指導をする役割。みんな好き勝手なところに散っての撮影となるから、二子の鉄橋を中心にやれと言っても、9時半から日が暮れる5時までの間、わたしは上流下流と結構歩き回ることになった。昼飯を食べに行ったり、ベンチで休んだりしてもかなり疲れた。来週はラッシュを見てから編集。どんな作品ができるか楽しみ。
わたしはいつも、勤め先の多摩美上野毛キャンパスに行くとき、東急田園都市線の二子玉川の駅で大井町線に乗り換える。昨日ロケしたのは、この駅のホームが鉄橋の上を川まで伸びている、その下の数百メートルの辺り。いつも、上から見下ろしている河川敷を、電車を見上げて歩き回るという格好になった。発車のベルがかなり大きく響く。気にすればうるさいくらいだ。でも、ひっきりなしのアナウンスやベルの音は、生活の中で聞く音として身体に染み込む音だなと思った。昨日一日中聞いていたからか、一日経った今でも耳に残っている。アリフレックス班 からボレックス班へ、そして遠くのサッカー場に向こうの草むらで撮影しているスクーピック班へと、歩き回る間、いろんなことが頭を過ぎった。
子どもの頃、錦糸町の江東楽天地にあったカメラ屋のショウウインドウで8ミリだったか16ミリだったか、あるいは9.5ミリだったかわからないが、ムービーカメラを初めて見て、とても自分の手の届くものとは思わなかったが、それを使って自分が個人映画なるものを撮っているということは、どういうことなの、とか、高校生の頃は映画に憧れてシナリオ作法の本を買ってきて読んだけど、映画の現場には行かなかったが、結局はテレビ局に勤めてしまったなあ、ということなど。ここで今、映画実習をやってる若い人たちって、この先何をやることになるんだろうか、などということも。河川敷を歩き回っていると、そんな「流れ」というものに乗ってしまうのか。
背高あわだち草が風に揺れているのをDVカメラで撮った。それから、帰り際、夕日に赤く染まった電車も撮った。それが昨日の出会いだった。そういえば、木陰のベンチで休んでいるとき、15分も座っていると、立ち上がって何処かに行きたくなるので、何分ぐらい何もしないでじっとして座っていられるか試してみたら、40分がせいぜいだった。遠くの方で撮影して連中が気になりだして、立ち上がってしまった。