「抽象」に出会う。
読み切れない本の堆積。 本に頼るという悪癖の結果。 |
いよいよ数学にのめり込んできた。何でも目先のことから深入りして泥沼に落ち込むというのが、わたしの悪い癖。それから本に頼るというのも悪い癖。今回は、この二つの悪い癖が重なってきた。21日に読み終わった「キーポイント線形代数」の次に手にしたのは「線形代数30講」(志賀浩二著)だった。「キーポイント」の方はx,yとかx,y,zとかの連立1次方程式を解くのに、ひとつひとつ未知数を消して、残った未知数の値から解を求めるという「ガウスの消去法」から、係数の「行列式」へと入っていく道を取って、「ベクトル空間」に入り、「線形変換」を経て、「線形写像」から「線形代数」に至るという道筋だった。行列式の辺りまでは、何とか地に足をつけてついて行けたが、その後は視線も定まらぬままに数式を眺めて通り過ぎたといった次第だった。そこで、もう一度「線形代数」に挑戦とばかりに、前に買ってあった「線形代数30講」を手にしたというわけ。
「30講」も連立1次方程式から入って行くところは「キーポイント」と同じだったが、こちらはツルカメ算(ツルとカメの足の数から頭数を求める算術)から始め、カメ・タコ・イカ算になったとき関係式が三つ必要になるというような仕方で語られているので読みやすい。そしてy=2x+3というような「関数」が、実は数字の順序を直線と考える「数直線」上の「写像」を表していると説明される。xy座標で表すと、y=2x+3のy座標の値はx座標の値の「写像」ということになる。「キーポイント」でよく分からなかった「写像」ってそういうことだったの、と分かったような気になってると、2元1次連立方程式をu=x+y、v=2x+4yとしたときのu、vの関係を「xy座標のグラフにかくわけにいかない」というのだ。つまり、敢えて描こうとすればuv座標の別のグラフに置き換えることになるというわけ。著者の志賀氏は説明する。
「実際、ふつうのグラフのかき方に見習うと、xy平面に直交する、互いに直交するさらに2本の数直線をとってそれをu軸、v軸としなければならないだろう。しかし、3次元の世界に住む私達には、このような図を直覚することはできないのである!」「3次元の世界に住む私達には、このような図を直覚することはできない」。これが「抽象」ということなんだ、と分かり掛けてきた気がした。数というのも抽象概念だけど、まだそれは現実と対応している。しかし、写像は数という抽象概念から更に抽象した概念というわけであろう。そういう直覚を超えたところの広がりがあるというわけだ。その辺りを散歩するなんていうことが出来ないものかと思う。その散歩というのが、3Dグラフィクスなのかも知れない。
「しかし、大切なことは異なる入り口から入っても、結局は同じところに行き着く(行き着かねばならない)ことである。つまり、もっとも基本的な線形性ということを感覚的に理解すること、具体的にいえば、行列は線形写像を表すものである、というようなことがわかるようにすることである。」といっている。志賀氏が「直覚することはできない」といっていることを、佐竹氏は「感覚的に理解すること」というわけで、頭の訓練がかなり必要ということなんでしょうね。そして、特集の中には「分数のできない大学生」を書いた戸瀬信之という人の「本当に生きる力がつく線形代数」と題した文章もあった。「生きる力がつく」っていいなあ、是非ともやらなくてはという気にさせられる。
「キーポイント線形代数」を読む。
庭に落ちていたゼミの死骸 |
昨日は、台風がくるというので一日そわそわした気分だった。体感できるのは、雲行きと時々ぱらつく雨だけなのに、テレビを見ると四国や紀伊半島の海岸に大波がうち寄せている。それだけで、気分が浮ついてくる。NHK総合の午後は、高校野球の決勝が順延になった代わりに、台風を前にした各地の風景が次から次へと映し出された。それが、普通の海岸や街の情景や樹木だったりする。特徴のないそういう情景や事物が、風が吹いたり強い雨に打たれたりすると活気づいてくる。その活気に感染して、そわそわしてくるというわけ。
さて、いよいよ「線形代数」に取りかかって、4日間で185ページの薩摩順吉・四谷晶二著「キーポイント線形代数」を読んだ。と言っても、後半の半分は殆ど理解できなかった。考え方は何となく分かるが、記述された式の展開について行かけなかった。書いている人たちは、「行列の性質」を使うと要素が複雑な方程式を解くのに便利だから、その基本から理解してしっかりと身につけなさいという書き方をして、道具としての「行列」の扱い方を述べているのだと受け止めた。いろんな言葉に出会った。「ガウスの消去法」「線形独立」「固有値問題」「固有ベクトル」。分からなくなったのは、「線形写像」に「像」と「核」が出てきた辺りからだ。「・・・を満たすと」と言う具合に書かれると、その満たすべきもの分からなくなる。つまり「条件」という考え方になれてないので、そこで躓いてしまう。まあ、何十年振りに「やさしい」入門書のまたその入門書に当たる本を二冊読んだだけなのだから、「数学的な考え方」になれてなくても仕方ないでしょう。でも、これで止めたという気分ではなく、もう一冊読んでみようという気になってる。薩摩さんと四谷さんの案内では、見分けもつかないままに「線形代数の森」を通り過ぎてしまったから、また入り口に戻って、別の人の案内で入って、もう少し見分けがつくようになりたい。
もう秋だなあ、という感じ。
秋空を感じさせる雲行き |
昨日自転車に乗ってトウモロコシを買いに行ったとき、身体に当たる風に秋を感じた。日差しは結構強いが、道端の家や木立の影に入るとさわやかで気持ちよかった。何かが過ぎ去ったというか、懐かしいというか、そういう感情が湧いてきて、いきなり郷愁に駆られるような思いになる。古い「盆が過ぎると」という記憶が甦ってくるのかも知れない。買ってきたトウモロコシを茹でて、高校野球の甲子園からの中継を見ながら食べた。
このところ毎日のんびりと過ごしている。OpenGLのプログラミングの途中まで来て、「座標変換」で「行列」が出てきた。数学でいうところの行列だ。本には別に詳しいことは分からなくてもいいと書いてあったが、コンピュータグラフィックスのどの本を見ても3Dとなると必ず「行列」が出てくるので、この際、その基本だけでも勉強しておこうという気になった。で、本屋に行って一番易しそうな「行列とベクトルのはなし」(大村平著)という本を買ってきて読んだ。それから、座標変換には回転に関連してsinとかcosという三角函数が出てくるので、これも入門書の「sinとcosの超入門」(堀江正著)を読んだ。読み終えて見ると、数学の本をもっと読んでみたいという気になった。ついでだからもうちょっと先まで行って「線形代数」の本も読んでみようという気なってきたところだ。
新詩集「胡桃ポインタ」全冊の表紙と挿画は一枚一枚描かれる。
詩集「胡桃ポインタ」の表紙の絵 | 「胡桃ポインタ」の表紙の絵を描く海老塚さん |
「胡桃ポインタ」挿画を描く | 「胡桃ポインタ」の挿画 |
この9月に書肆山田から刊行予定のわたしの新詩集「胡桃ポインタ」の表紙の絵と挿画を、海老塚耕一さんがいよいよ描き始めた。8月13日に海老塚さんのお宅のアトリエを訪ねて、描いているところをDVカメラで撮影した。昨年から海老塚さんと彼の作品を撮影しているという流れで、今度出る詩集「胡桃ポインタ」の表紙の絵を海老塚さんにお願いたら、全冊の表紙の絵を一枚一枚違ったものとして描くというので、わたしは吃驚したが、彼はその方が楽しいから是非そうしたいというというので、そういうことになった。そして、挿画も一枚入れたいというわたしの希望もかなった。嬉しいという以上に、試みとして、こわい感じもする。そんな贅沢な詩集ってあるのだろうかという思いだ。
海老塚さんが取った方法は、打ち合わせの時、表紙と挿画の絵を描いて、装幀としてデザインして、予め印刷する部分と後から描き加える分を分けて作業するということだった。予め印刷する図柄はグレーで、ということだったが、書肆山田の話ではそのグレーの印刷が四色刷りになったというから、通常の表紙の印刷と同じということだ。その上に手で色の図柄を描き加えて行くのだから、表紙としてはこの上ない贅沢ということになる。わたしにはどきどきさせられるようなことだが、海老塚さんとしては「詩集」を造形表現として実現しようというわけだ。
詩集というもに対するわたしの考えでは、詩集は言葉の詰まった事物として美しい方がいいと思っている。詩は言葉を書いて自分の気持ちが納まればいいというようなものではないと思う。誰かが読んで現実から引き剥がされた気持ちになってくれればと願う。その言葉への入り口として、またその言葉からの出口として、空間を占める事物として詩集というものがあるのではないだろうか。建物とか道とか広場とかの空間が大切なように、詩集も空間として大切なものだ。わたしがそういう思いを持っているということで、書肆山田の人たちや海老塚さんと「詩集」という場で出会えたのだと思う。
海老塚さんが、赤と黄色と青の絵の具を使って、筆で描いて行くのをカメラのモニターで追って見ていると、確かに似てはいるけど同じ絵は一つもなかった。「この印刷されている図柄を何と言ったらいいのですか、下絵とは違いますよね」というと、彼は「下絵じゃないです」ときっぱりと言った。「編み目というか、一つの層を成しているものなんですね。その上に別の層として絵の具で描き加えて行くわけです」という。ドローイングにしろ絵画にしろ、手に重きを置く考え方からすると、「印刷されたものの上に描き加えて作品にするというのは禁じられているようなところがありますよね」とわたしが言うと、「印刷の復数という神話と手がきの一点という神話、それが問題ということです」という。芸術の流通の制度の問題ということ。確かに絵画は高価で、一般には買えるようなものじゃないという意識がある。だから、表紙の絵を一点一点全部描いてくれると聞くと贅沢だという気持ちになるわけ。しかし、海老塚さんからすると描くのは楽しいからやるんだという。彼の言葉では「印刷って言っても、それは版画と同じように一つの版ですよ。それをどう生かすかです」ということ。わたしは海老塚さんと話していて、結論として、ここに印刷の複数と手で描く単数を重ねるという「愉快」が実現されているのだと受け止めることにした。
ところで、その「愉快」の中身についてちょっと考えた。手で描くのは単数、印刷は複数。その複数に単数を重ねるということは、単数を複数回行うということになる。その複数も表紙と挿画の2点で、2000に近い回数だ。わたしが撮影している間、一枚描くの2分ぐらいで、4、50分、続けざまに描いて行った。見たところ絵付け職人の作業のように見えたが、職人と違うところは、職人が同じものを描くのに対して、海老塚さんは違うものを描いて行くということだ。一つ一つにイメージを働かせなくてはならない。意力と気力が要求されると思った。わたしにはそれが一種の修行のようなものに思えたので、そういうと「楽しんでるんだから、修行じゃないですよ」と一挙に否定されてしまった。でも、すでにもう300枚くらいは描いたということだったが、続ける時間が長くなると詰まってくる、そこをどう切り抜けるかというところで、自分の力が問われてくるというのだった。つまり、「表現という無償の行為」の持続力が問われてくることなのだと思った。海老塚さんはこの詩集との関わりを自分の方に引き込んで行っているわけ。その詩集の著者であるわたしは「彼の単数の複数」をどれだけ引き受けられるのか問われているというわけ。考えさせられる。
詩集「胡桃ポインタ」の表紙の絵の一つ |
夏休みの朝。夕方から久し振りの雨。
毎朝咲く朝顔の花 |
庭に降る雨の水輪。 清水鱗造さんに教えて貰ったやり方で 写真にシャドウをつけてみた。 |
今年も夏休みに入ってから、毎朝咲く朝顔の花を見て数えるのが楽しみになっている。薦田愛さんが入谷の朝顔市から送ってくれた緑と青の朝顔。紐を物干しの綱に結んで蔓を絡ませるようにしている。今年は三本の紐に、それぞれ三つの蔓芽を絡ませたので、花の数が多く感じる。一番先に延びた蔓は、物干し綱の更に先に行こうとあてどなく蔓芽を宙に彷徨わせている。花ばかりか、その蔓の彷徨いを、紅茶と野菜サンドを食べながら眺め、新聞を読むのが、わたしの一日の始まりというわけ。
新聞は「東京」「朝日」「日経」と3紙読むのに1時間から1時間半ぐらい掛ける。記事によってわたしのその日の行動が決まるというわけでもないので、どうでもいいようなものだけど、大まかな世の中の動きというものを知ってないと不安になる。小泉首相の靖国参拝の熟慮は、憲法問題と絡んでいるのだろうなと思ったり、文部省のスペシアル・ハイスクール等というものは新たな階級制度の成立の地均しだろうなと思ったりする。そういう思いに対して、近頃のわたしはどうせそれが実現する頃には俺はもういないよと自分に向かって言葉を返す。でも、昨日の夕刊にCPUのトランジスタの数が現在は3000万個ほどだが、2007年頃には1億個になるだろうと出ていたが、それまではせめて生きていて、そういうパソコンで何か面白いことをやってみたいなあとも思う。だいたい、新聞が読み終わって、パソコンを起動してメールを見て行きつけのWebサイトを見終わるともう昼ご飯ということになる。こりゃ、殆どご隠居さんのやることですね。で、重たい身体をグニャグニャッと動かして体操の真似事。
今日、8月11日の東京・渋谷は夕方から久し振りに本降りの雨になった。テレビの中の甲子園はカンカン照り、20対0で負けたピッチャーの姿を見ていたけど、悔しさを通り越して唖然としたような表情だった。監督達は「何が起こるわからない」とインタビューでよくいってるけど、その「わからない何か」が起こったんでしょうね。トウモロコシを茹でながら、しばらく庭のたまり水に降る雨足を見ていた。野球のいいところはきっとこんな大敗しても、翌日からまた来年を目指して頑張ろうという気になれるってことなのかも知れない。
川口晴美詩集「EXIT.」を読んだ。
川口晴美詩集「EXIT.」の表紙のタイトル |
川口晴美さんの新詩集「EXIT.」を読んだ。銀色の高級チョコレートの箱のような洒落た装丁の詩集だ。散文、行わけ、横組と幾つかの違ったタイプの詩が、仕切をつけて分けられて入っているというのも、チョコレートの箱に似た装丁の詩集にふさわしいという感じだ。チョコレートには中にラム酒が入ったものとか、ナッツがついたものとかがあるように、川口さんの詩にも形が違うものや味が違うものがある。読み応えがあって楽しめる。そして、言葉に生きる詩人の切実な思いも伝わってくる。
この詩集は三つのパートに分かれているが、その仕切りに当たるそれぞれの扉ページには小さい活字の横組みの詩が印刷されている。そこに語られている言葉が切実な思いを感じさせるんですね。<イヅミ>という最初の扉の作品では、「わたし」が外国の観光地の海辺に沿った道路に置かれたテーブルに肘をついて、行き交おう人々を眺めで、水が足元を浸すのを予測しながら「あなた」を待っているが、「あなた」が到着するときには「わたし」はもういない、というようなことが語られている。「中仕切りの<double / double>の詩「ダブル/ダブル」は、地下の薔薇色の床タイルが引き詰められた「婦人用化粧室」で死んでしまった「わたし」がその「わたし」から抜け出して行くということが語られた作品。そして、後半のパートの扉の作品では、都市の至る所で空間を感受し、そこに裂け目を作り、植物としての「わたし」を育てる湿地帯の「あなた」が、「わたし」のところまで来る過程が語られている。
この扉の詩の意味合いとしては、掴み所のない孤独感と言えそうだが、それは現在のわたしたちを被っていて、やや大袈裟にいうと、日常の地盤の下に気がつかないうちに滑り込んでくる異質なもののプレートが作り出す断層を予感している者の孤独感とでも言えるようなものだ。生活していて互いがいつの間にか異化した存在になってなってしまう。その亀裂を感じたところで発生する孤独感。それを機軸にして、人の生きている有り様を語ろうとすると、ひどく困難を感じる。これまでの語り口では通用しない。その困難さを乗り越えようとすると、様々なタイプの詩形を試みなければならないことになるのでしょうね。この詩集全体がそれを、SF小説風だったり、旅行紀風だったり、語り口調だったりする実作をもって示しているのではないかと思えます。そこが言葉を生きる人にとって切実ということ。先ずは、ちょっと長いけど、この詩集の作品を一つ読んでみて下さい。
わるいアンモナイト売り最後の方の「わたし」が「ベルベルの男」と砂の上に文字を書くところがいいなあ、と思う。わたしの頓珍漢に飛躍する頭では、この辺りを読んで、日本語そのものが異質なもの曝される事態に立ち至っていると思った。それは安易なナショナリズムじゃ切り抜けられないと思う。「個人が主体」は当たり前、というときの、その「個人」からすっぽり抜け落ちる実体を、チョコレートのお菓子のような姿の川口さんの詩はちゃんと掴まえているように思えた。
甘い香りで目が覚めた。身動きするたびパラフィン紙がぱりぱりいうのに似た音をたてそうなほど乾燥したホテルの空気の底に投げ出されているわたしの皮膚を、薄く覆っていた眠りの膜が朧な香りの指先で引き剥がされようとしているのがわかる。睫毛の先でかろうじてそれに抵抗しながら、何ノ匂イダロウ……という疑問がまるで他人のコトバのようにこめかみのあたりに点滅したとき、モーニングコールのけたたましい機械音が耳に鳴り響いているのに気が付いた。
隣のベッドでシーツが大きくはね上げられる気配を感じながら手探りで受話器を取る。イエス、と応えた声がひどく掠れていて自分の声じゃないみたい。電話はすでに切れているからツゥーというとらえどころのない音に溶けて受話器の小さな夜の穴へと吸い込まれていってしまいそうになる。彼女が隣のベッドの縁から惨殺死体みたいなかっこうで頭部を垂らしたまま、何時?と聞く。彼女の声も掠れている。午前四時、と答えてからわたしは音が先だったのだろうとぼんやり考え始める。なけなしのわたしの眠りの膜を引き裂いたのはモーニングコールの音で、何だかわからないさっきの香りはその裂け目からわた しの中へ漂い込んだのだろうと。まだ真夜中と同じ暗さの部屋へそれでも半身を起こしてしまえば裂かれたのか剥がされたのか皮膚を覆っていたはずの眠りの膜はもうどこにもなく、わたしはひどく無防備な生まれたての獣になった気がして少し震える。
さあ砂漢だ、と彼女が勢いよく起き上がる。そう、わたしたちはきょう砂漠へいく。砂丘の上で日の出を待つためにはあと三十分で身支度をして出かけなくてはならない。のろのろとベッドの足元に脱ぎ散らかしてある服を手繰り寄せ、夜明け前の砂漠の寒さをしのぐにはどの順番で重ね着したらいいか考えながら、何ノ匂イダロウ……というコトバを何となくまた手繰り寄せている。どうしてか香りそのものは今はしない。どんな香りだったかも思い出せない。どうしたの?歯ブラシを口に突っ込んだ彼女がバスルームから声をかけてくる。うん、とわたしはあいまいに首を振る、使い捨てカイロも持ってくるべきだったかと思ってさ。使い捨て、という響きが口の中で妙にざらっき、わたしも歯ブラシを手にバスルームヘ行く。
安物のウインドブレーカーを羽織り、カメラと財布の入ったバッグをつかんで小走りで出ていくとホテルの前に4WDが待っていてわたしたちは後部座席に荷物のようにぎゅうと積み込まれる。わたしの横にはガイドのモロッコ男が当たり前の顔をして坐った。夜の暗さの中を車が走り出す。何十年か前はオアシスでしかなかっただろう小さな町はあっという間に尽きて、いったいどこが道なのかわたしたちにはさっぱりわからない荒れ地を激しくバウンドしながら猛スピードで進んでいくあいだ、車のライトの届く範囲が世界のすべてだった。闇に縁取られたゲームの画面のようにきりもなく流れる土と小石と痩せた草。見ていると体がどこにあるのかわからなくなって、奇妙な不安と快感が凄み出す。眠るときと同じように。コワイ、でも、ずっとこのままでいたい。ふいに、ひときわ大きく車が弾み、わたしたちの体がシェイクするみたいにシートから投げ上げられて落ちた瞬間、甘 い香りが鼻先をよぎった。
何の匂い?小声で彼女に問いかけると、どこかにぶつけたらしい肩を撫でながら彼女が振り向く。何か甘い匂いがしない?そう囁くと彼女は微かに笑い、これでしょ、と手首をわたしの顔の前に差し出した。手首。ああ、手首。わたしはやっと思い出す。きのう、夕暮れ近く通りかかった小さな村でバスを降りたとき、土産物屋に入ろうとした彼女の手首を店の男が入口でいきなりっかんだのだ。男は霧吹きのようなもので彼女の手首に何か吹きかけ、ぱっと離すと今度はわたしの手首をつかまえて同じことをした。バラの匂いがした。そこはバラを栽培する村で、バラ水を買えというのだ。店の中はむせかえるほどのバラの匂いに満たされ、わたしたちは壁の棚にぎっしり並べられたポプリや香水や化粧品を眺めるうちに酔ったようになって笑い出し、なかなか笑い止めることができなかった。店の男もいっしょになってにやにやしながらわたしたちの顔や背中にバラ水を吹きかけていたのだが、そのうち彼女の手首をまたつかんで今度は緑色のクレヨンみたいな棒をぐいと押しつけた。見ると彼女の皮膚がそこだけバラ色に変わっている。リップスティック、と男は言って大声で笑った。
暗い車内で彼女が差し出した手首の上には無造作に引かれたバラ色の線がくっきり跡になっていて、濃く甘い匂いがそこからたちのぼってくる。ティッシュで拭いても水で洗っても落ちないんだよね、と彼女は疲れた声になる。これだったのだろうか。わたしの体のどこかにも吹きつけられたバラ水が残っていて、眠りの裂け目をなぞるようにさっき漂ったのだろうか。今朝、と彼女が眩く。車がずるりと横滑りする。……顔を洗って化粧してたら急にものすごく無意味で無駄なことしてるみたいな気がしたわ。彼女はまっすぐ前を向き、それきり黙った。わたしたちは黙ってライトの中の荒れ地を見つめる。あらわれては消えていく土と小石と痩せた草を。わたしたちもそのうち消えるだろう。それはたぶんあっけないほどすぐに。
その先は砂漠、と言ったかどうか、ガイドが指差したあたりで4WDは止まる。ドアを開け、降りようとしてガイドは思い出したようにわたしたちを振り返り、わるいアンモナイト売りに用心してください、と言う。わるいアンモナイト売り?わたしたちには何のことがわからない。車を降りると夜の外気が冷たく硬く皮膚を擦る。足の下にあるのは砂漠の始まりの砂。そこからどこまでもなだらかに連なる砂丘を見渡し、わたしたちは最初の丘の上でわたしたちを待ちかまえているシルエットの列を見つけてしまう。ラクダに乗りたければあのベルベル人たちに値段を交渉します、とガイドが丘を見上げる。いいえ、わたしは歩きたい。
駆けるように歩き出す足の下で砂の量が急速に増えていく。沖に向かって泳げば海が深くなっていくのと同じようにこうして砂が深くなっていくのだとおもう。靴を脱いで素足で踏みしめると刺すような冷たさがあるのに一歩一歩が滑らかに包み込まれ、ふわふわと沈んでは浮かぶ動きの中から異様なほど細かな粒の乾ききった感触が体中を走り抜けて何を踏んでいるのか混乱しそうになる。砂だけを見つめて砂丘を登り、下る。それからまた登る。彼女はラクダに乗ったのかもしれない。いつのまにかわたしは一人で、隣をベルベル人の男がっいてくる。頭に巻いた黒い布とマントのような青い衣装が冗談みたいにガイドブックの写真どおりだ。ジャパン?と男が聞いてくる。イエス。下を向いたまま答える。オーサカ?男が近づく。ノー、トウキョウ。仕方なく顔を上げ、あなたはベルベル人かとわたしは聞く。男は嬉しそうにイェースと答え、あそこまで登ろうとナイフの刃先のように尖った砂丘を指差す。あたりは少しずつ薄明るくなってきて、砂の刃先にずらりと人が並んで日の出を待っているのが見えた。
砂が赤い。突然それがわかる。わたしは赤い砂を踏んでいる。いいえ、そうじゃない、おそろしい大量の乾いた赤い砂の底にわたしは剥き出しで投げ出されている。
立ちすくんだわたしの腕を、ベルベルの男はあっさりつかみ吊り下げるようにしながら急斜面を駆け登る。わたしの体は軽いゴミ袋のようにたやすく頂へ運び上げられていく。このまま砂の上をとこか知らないところへ連れ去られていくことだって簡単だ。わたしはすぐに消えてしまう。どうもありがとう、と砂の刃先でわたしは言う。ベルベルの男は微笑んでうなずき、あなたはあとでわたしのアンモナイトを買う、と早口で繰り返す。
わたしはあなたのアンモナイトを買うのだろうか。日の出直前の柔らかな明るさの中に並んで坐り、ベルベルの男はわたしに話しかけるのをやめない。砂に指でアラビア文字を描き、すな、と日本語で発音してみせる。ああ、それが砂。わたしは「砂」という漢字を隣に描く。男は微笑んでさっと砂を撫ててから別のアラビア文字を描いてこれがモロッコだと言い、ジャパン?とうながす。息がかかるほど顔が近づく。「日本」とわたしは描く。ベルベルの男のにおいがする。ちがう場所で暮らしちがうものを食べる体はこんなにちがうにおいがするものか。大量の砂に似ているとおもう。ベルベル、と言いながら男がまた砂に指を滑らせる。わたしはその形を見覚えることができない。この男と抱き合い砂のにおいに覆われてしまったらどんなにおそろしいだろう。男は掌で文字を消し、トウキョウ?とうながす。「東京」と描こうとすると砂が崩れ、サラサラと刃の斜面を落ちていく。線が消えてしまう。震える指から奪われて。消えてしまう。そう、わたしはすぐに消えるのだろう。足跡も皮膚もあとかたもなく。香りもきっと残さずに。
背後でフランス人のグループが歓声を上げている。日が昇ってきたのかもしれない。わたしは日の出を見ることができないのだろうか。もう二度と砂漠に来ることなどないというのに。ベルベルの男はわたしに話しかけるのをやめない。わたしはあなたのアンモナイトを買うのだろうか。それは決して消えないのだろうか。彼女はどこにいるのだろう。あのバラの匂いを探すと、ひどく近いところで甘い香りが漂う。今朝、わたしを目覚めさせた香り。バラじゃない。わたしの体の裂け目からこぼれ出て漂っている香り。消えていく予感が甘ったるく香っているのだと気付く。泣きたくなりながらわたしは赤い砂の上に指で「東京」と描く。何度も、崩れながら描き続ける。アンモナイトはどこにあるのだろう。昇ってくる日の刃が背中からわたしを貫きはじめる。
ようやく夏休み気分。
セミナーハウス周辺のハリモミの純林 |
先週の多摩美の「卒制合宿」が終わって、ようやく夏休みという気分になった。「卒制合宿」では、山中湖近くにある多摩美の「富士山麓セミナーハウス」に4日間泊まり込んで、学生達が教師と話し合いながら、卒業作品のシナリオを仕上げたりチームワークを作ったりする。教室で話すのと泊まり込んで話すのとでは、話の質が違ってくる。深夜を過ぎてビールを飲んで話しているとき、どうということもない話題に笑いがドット湧いて、お腹の筋肉が痛くなるということもあった。また、こわい話というのもあった。こわい話には女子学生はそれなりの反応をする。その雰囲気がいい。
神林君がしたこわい話。「ラスベカスに遊びに行った日本人の女子学生が、金持ちそうな男に誘われたのでついていったら、酒を飲まされ気を失い、気がついたらバスタブに裸で浸かっていた。目の前に、『助かりたかったら、バスタブから出てはいけない。この番号に電話せよ』と書いた紙が貼られた受話器があったので、彼女は早速その番号に電話した。するとそこは救急機関で、現在の状態を聞かれ、バスタブから出てはいけない、といわれ、彼女はバスタブに浸かったまま助けが来るのを待った。実は、彼女は腹を切り裂かれ、片方の腎臓を抜かれていたのだった。バスタブから出たら、出血して死んでしまうところだったというわけ。」
そういう話なら俺も知っていると、高木君が中国で行方不明になった学生が手足を切り取られてダルマの置物されてたという話をした。今の学生達にとって、海外旅行は日常のことになっていて、そこに潜む闇が生まれてきているということなのだと思った。外国人が闇を潜ませている。夏のこわい話も変わったという実感だった。
ところで、今年のわたしの夏休みはOpenGLをやることに決め込んでいる。合宿の4日間で、学生達が作業している間、わたしは「OpenGL SuperBible, Second Edition」を持って行って、辞書と首っ引きでノートパソコンにプログラムコードを打ち込んでは、コンパイルして実行してみるという作業をやっていた。OpenGLの3Dグラフィックスの「要素」となる点や線分を描き、頂点を繋げて多角形を作るということの復習となったが、この本ではxy座標(x、y)のxとyを変数にしてfor文を使って、一挙に数本の線分を描いてしまうとか三角形を描いてしまうというのが勉強になった。そして更に矢印キーで円錐を廻したり傾げたりできる、いわゆるインタラクティブなプログラムがサンプルとして出ていた。そのプログラムコードを打ち込んでコンパイルしてみた。興味のある方は、
わたしが作ったOpenGLのプログラム(Windows用)
から、「追加プログラム・その2」をダウンロードして試みて下さい。