2001年10月1日から31日まで


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2001年10月28日

 朝顔がまた咲き始めた。


Perl&CGIの本
 また咲き始めた朝顔の花。

 10月に入っても毎朝一つか二つ咲いていた朝顔が咲かなくなったので、もう終わりかなと思っていたら、27日の朝はいっぺんに五つも咲いた。よく見るとまだまだ小さな蕾が出ている。昨年もそうだったけど、朝顔はこの時期に最後の花を咲かせるということなんだろうか。でも、咲いたと言っても、夏のようにのびのびと大きく咲くというのではなく、縮かんで咲いている。力がない。老齢の朝顔、というわけ。その風情は夏の朝顔とは違う。

 25日は、海老塚さんと書肆山田の人たちと詩集『胡桃ポインタ』の打ち上げをした。事務所で、海老塚さんと二人で詩集にサインをしていると、丁度そこに本屋から追加注文の電話が掛かってきて、一民さんは「何か仕組んだんじゃないの」といって笑っていた。追加といってもたった一冊。でも追加注文があるなんて珍しい。それで、その後事務所近くの美味しい酒が置いてあるうどん屋で酒を酌み交わしながら、「増刷ですよ、海老塚さん、手彩色をまたやらなければ」というと、海老塚さんは「楽しいから、一万部でもいくらでもやりますよ」と応じて、にこにこ顔だった。楽しんで作る、その楽しみを手渡す、という原点から始める。その原点から始めるということ、美術だったら、色彩論や素材論を踏まえたところから考えを始める、言葉なら、その抽象性やイメージ喚起ということを踏まえたところから考え始める、その辺りことを、またその辺りの更に周辺のことを話して深夜にまで至った。

 24日の昼前、地下鉄大江戸線の都庁前駅のコンコース広場でその日まで開かれていた、海老塚さんか指導する多摩美のゼミの学生がプロデュースした現代美術展「TAMA VIVANT 2001」を見に行った。地下のコンコース広場に8人の若い作家の平面や立体の作品が展示されていた。1時間弱の時間を作品を前に過ごしたが、そこにいたプロデュースした一人の中山理恵さんの話を聞いたりすると、表現に触れたという感じになってワクワクしてくる気持ちにさせられた。
 その一番は清水淳さんの「Vanishing Point」。20センチ四方の菱形の透明樹脂で作られたアラビア風の模様のオブジェが、地下鉄駅の事務所の透明ガラスの壁面一面に、数十センチおきに数十個貼り付けられている作品。これは、この作家を選んだという中山さんに教えて貰わなければ気がつかなかった。いや、指さされても、「何処に?」と問い返さなければ見えなかった。もともとガラスにつけられた模様と思ってしまっていた。他の作品は、人が足早に行き交う空間の中でそれなりに存在を主張していたが、この作品はそういう空間の中で消えていくことを、敢えて言って、「主張している」わけである。存在を主張しないことを表現するということに、自分を押し出さなければ気が済まないわたしは虚を突かれた思いになった。しかし、清水淳さんのもう一つの作品は、コンコースの柱に掛けられた巨大な昆虫の木彫であり、山中さんが持っていたパンフに載っている作品はゴジラの木彫だった。それで、彼女にその甚だしい違いについて質問すると、作者はひどい失恋をして、そこから立ち直るための作品がこの「Vanishing Point」だということだった。そうか、失恋の打撃で消え入るような気持ちを具現化した作品だったのか、と思った。それにしても昆虫の木彫と透明樹脂のオブジェとは違いすぎると腑に落ちなかったので、大江戸線から半蔵門線に乗り換えさらに田園都市線で二子玉川に行く間に、地下鉄の中で「TAMA VIVANT 2001」のパンフレットに載っていた中山理恵さんの文章を読んだ。そこには「近年、清水の作品は、このめまぐるしい世代交代と流行に流動する社会と自らの幼年時の記憶や憧憬といったものを、何と対峙すべきかも見定めにくい選択の過程で引き起こされるズレた現実の光景をありのままに見せつける。」と書かれていた。これを読んで、わたしは清水淳の作品を内的に生起したことの外化の一つのあり方として受け止めることが出来た。なるほど、いい線行ってる、と思った。
 若い人たちは地道にやってるなあ、という思いは同じコンコースにあった油絵具、アクリル絵具等で形成した赤い平面の川城夏未さんの「Balance 2000」のNo.1とNo.2に、また緑色のポリエチレンのネットを吊しただけの山添ヨゼフ勇さんの「ポリエチレンネット形態と糸」からも受けた。それらの作品は、作品と接して励まされるという感じだった。彼らの作品は、境界もなく拡がっていく素材の原野に思念を結ぶ行為そのものといえよう。誰が受け止めてくれるかわからない。とはいっても、自分の思いで作り続けている作品をそれなりに受け止めて、見定めようと試みる人がいるということだ。わたしも作り続け見定めていこうと思う。




2001年10月22日  学生達が作った「人生を考える本」というもの。


 わたしが担当する多摩美・映像演劇学科の1年生の「空間表現基礎」という授業で、後期の最初の課題として、「生まれてから死ぬまでの自分の人生を考えて30ページ以上の本」を作らせたら、72人がみんながみんなまちまちの「人生を考える本」を提出した。わたしはこの2週間毎日のように大学の展示してある部屋に通って、一日平均3、4時間掛けて読んでいるが、実にまだ読み終わっていない。読み出がある。面白い。最近、こんな面白い読み物は読んだことがなかった。

 先ずは、それぞれの学生が思い思いの形態で作って、二つと同じ形のものがなかった。スケッチブックを使うとか、アルバムや絵本のように仕上げたのものが多かったが、トイレットペーパーに人生についての思いを綴ったもの、また全ページをフェルトの布で作ったものや生まれ育った家のジオラマの工作キットなど、見ただけで興味をそそられるものが幾つもあった。どういう形態を選ぶかというところに、学生達の「人生」に対する思いが表れている。野沢君のトイレットペーパー人生本は、一度ほぐして読んでしまったら、元には容易には巻き戻せない。確かに人生は巻き戻せない。天野君のスクラップでは、新聞記事の事件の当事者の名前が全部自分の名前に貼り変えられて、誘拐騒ぎの小学生からコラム記事の筆者に至るまでの人生がスクラップされていたが、新聞という媒体に照らして、誰の人生も似たようなものというアイロニーが込められたいるように感じた。

野沢君の本
 野沢くんのトイレットペーパーの本
天野史郎の本
 天野君の記事の名前を貼り替えたスクラップブック
大谷さんの本
 全部フエルトで出来た大谷さんの本
大谷さんの本
 着せ替えの服


 大谷梨絵さんが全ページをフェルトで作り、最初のページにこれもフェルトで作った小さな裸の人形を置いて、各ページにはおむつから始まって、小学生の服、それから結婚式のドレス、そして最後に死出の衣装までの人が身に着ける衣装を、これまたフェルトで作ってピンで留めたというのは、彼女の人生に対する願望が表されているように思う。軟らかく、手に取ると暖かく優しい本。しかし、それにしても、死の衣装ページに「2067年9月27日 梨絵死去 享年85歳 辛いこともあったけど 楽しい人生だった」と書かれたのを読んだとき、わたしは思わずはっとした。「2067年」という年! 今年66歳のわたしに取って、何という遥かな年であろうか。わたし自身の存在が彼女の記憶に残っているかどうかさえあやしい。

 川崎草君の「曖昧ミー・マイン」と題された本には心を動かされた。ゴジラの大ファンだった小学校時代から映像を勉強する大学生の現在に至までの事が綴られているのだが、全ページに渡ってペンで書いた文字を一字書くごとに、擦って掠れさせている。小学校から中学校までいじめにあっていたと書かれていたが、そこには初恋のことも書かれていた。それが、淡い恋物語で実にいいのだ。好きな女生徒がある時話しかけてくれて、ゴジラファンだった彼がゴジラに詳しいのを誉めてくれたのをきっかけに、毎朝彼女と挨拶できるようになり、その「おはよう」「おはよう」の言葉を交わすチャンスを作るために細かな神経を使うようになったという。彼女が家を出て学校に着くまでの間に、悟られずに偶然を装って「おはよう」を交わす。自転車で家を出て、丁度途中で追い越すように時間を見計らう。そして、彼女が道順を変えて友だちと登校するようになってからは、友だちと並んで歩いている彼女のどちら側から声を掛けるかが、顔を見ることが出来るかどうかの問題になる。そこで、追い越し方を工夫したといったことが気持ちを込めて書かれていた。挨拶だけの初恋だったわけだが、細かいところがリアルに書かれていて読ませる。川崎君はたいしたストーリーテラーだと思った。実に、掠れた字が憎いね、という感想を彼に送った。

川崎草くんの本
川崎草くんの本
大谷さんの本
 字を掠れさせている
佐々木薫さんの本
 佐々木薫さんの手紙の束の本
大谷さんの本
 手紙の束


 佐々木薫さんの「人生を考える本」は家族や友人に手紙を書いて返事を貰ったその手紙の、どさっと重い束だった。彼女は、この「人生を考えるという課題」を出されたのを機会に、父母、祖父など家族をはじめ、小学校から高校や以前行っていた大学の先生や友人達に、自分がそれらの人たちをどう思っていたかを告げて、その人達から自分のことをどう思っていたか返事に書いて貰うという趣向だ。突然手紙を出すというわけででなく、一応電話で意向を話してから手紙を書いているので、一種取材に応えるという形になって、互いにそれぞれ気を遣いながらも、正面から手紙を遣り取りしているので、全くの他人のわたしが読んでも、すがすがしい感じで気持ちよく読めて、読み応えがあった。全部丁寧に読んだから読むのに2時間余り掛かっただろうか。しかし、読み終わって、地方都市での若い女性の育てられ方や、彼女を囲む人々の姿が、友人達の反応の仕方やそれぞれ違った言葉遣いから具体的分かって、人の存在に触れたような思いになった。佐々木さんはそれぞれの人と過ごしたときに見た空の色合いを手紙の中で語っていたが、その空の色というのが人との関係を集約しているように思えて、「空の色ってそういうものなのか」と実感させられた。

 ここに紹介したのは五つの例にしか過ぎないが、その他の「人生本」のどれもがわたしには読み応えがあった。それで、同僚の教員に「面白いから読んでみませんか」と勧めたが、興味を持って見に行った人で全部を読むという人はいなかった。わたしにしても自分の担当の授業でなければ、作品としての形態がばらばらで、自分の思いのままに書かれたものを全部読む気にはならないだろうと思う。わたしが、これらの「人生本」に引き込まれて読む続けられるのは、一人一人の学生を知っているからだと思う。しかし、これは現在わたしたちがぶつかっている表現の問題が抱えていることなのではないかと考えられる。学生たちはここでは明らかに表現行為を行っている。そして、その表現は現実に存在する表現者を知っているわたしには濃密なものとして伝わってくるが、彼らを直接知らない人にはそれが表現として伝わらない。ここのところは、つまり「詩の表現」というところに置き換えると、知っている人の詩はそれなりに面白いが、多くの知らない人の詩は余り面白くない、ということに重ならないだろうか、ということである。これは、表現が置かれているメディアと環境の問題ということになるのであろう。考えてみたいところだ。



2001年10月14日

 Windows98SEと冷や汗の出る格闘.。


Perl&CGIの本
 秋のバラの花。

 パソコンにトラブルは付き物だけど、今回のトラブル解決は「まさにWindows98との格闘だった」といえるんじゃないかという思い。麻理さん用にしたパソコンのCドライブとDドライブを結合して一つのパーティションにしようとしたところからトラブルは始まった。Cドライブの空きが180MBほどになってしまったので、隣のがらがらに空いているDドライブを一つにしてしまえ、と思ったのだった。CとDのドライブは4GBあるEIDEのハードディスク上に1.5GBと2GBのパーティションとして切ってあった。2GBのパーティションを3.5GBに拡げようというわけ。残りの500MBには「超漢字」がインストールしてある。パソコンは数年前に買った古い製品。従って、Windows98SEも16ビットFATのファイルシステムで、二つのパーティションに切って使っていた。

 先ず、2GBを超えるパーティションを作るためには、ファイルシステムをFATからFAT32に変えて結合しなければならない。そこで、HDDのパーティションを操作するソフト「パーティション・マジック」を起動して、CとDのパーティションをFAT32に変換して、結合した。そして、それを有効にするために再起動した。ところが、このマシンには「Windows98」と「超漢字(BTRON-OS)」の異なるOSがインストールされているので、その切り替えに「SystemCommander」を使っていた。再起動の最初で、そのOS切り替えソフトの「SystemCommander」が古いバージョンでFAT32をサポートしてないので起動できなくなった。BOOTディスクのCドライブを選んでも、「SystemCommanderをバージョンアップするか削除するかせよ」と警告するばかりで、その先に行けない。つまり再起動できない。これがトラブルの第一段階。

 そこで、起動用のフロッピーでDOSを起動して、コマンドラインでCドライブの「SystemCommander」のディレクトリに入り込み、削除ファイルを起動して削除した。さてこれですんなり行くかと思って、再起動すると、今度は「パーティションマジック」の「Pre-OSアプリケーション」というのがWindows98の前に起動してしいまい、そのバッチファイルが呼び出すファイルが見つからないといって起動できない。そこで、またまた、フロッピーでDOSを起動してsystemディレクトリの「パーティションマジック」用のファイルを削除してしまう。この辺りから格闘が本格化してくるのだ。再び再起動しても相変わらず「パーティションマジック」の「Pre-OSアプリケーション」が起動してしまい、同じところで立ち往生となる。ではこの「Pre-OSアプリケーション」を削除しなくてはならないが、しかし、それは何というファイルで何処にあるか皆目見当もつかない。実は、このマシンは、先日、家の麻理さんが移転して使うことになったばかりのマシンで、彼女のデータフィルが全部無くなるなんてことになったら大変だ、と焦り出す。絶対にWindows98を起動させなくてならないのだ、というわけ。思わず知らず、冷や汗が出てくる。再びフロッピーを入れて、DOSからCドライブに入り、C:¥Windows>winで、Windowsを起動すると、青い画面で「VFATが読み込めず、システム停止」ときた。午前2時を過ぎを、もうダメか、と諦め気分でベッドに入った。

 しかし、ベッドに横になっても、VFATって何だ、と頭から離れない。そこで、起き出して、パジャマのまま、Windows98の本を取り出す。本を読むとそれは32ビットのFAT32ファイルシステムに必要なものらしい。それがないということは、そうか、変換した後、再起動して完全にFAT32に切り替えてなかったから、ドライバが16ビットFATのファイルシステム用のままなのだ、と思った。それなら、Windows98を再インストールすれば回復できると思い、ベッドに戻った。翌日は朝から、ディスクをスキャンし異常がないのを確かめてからWindows98SEのCD-ROMを入れて再インストールした。しかし、いざ、再インストール後の再起動になると、「Pre-OSアプリケーション」が起動して呼び出しファイルを見つけられないと、起動の途中で止まってしまうのだった。とにかく、このWindows98の前に起動してしまう「Pre-OSアプリケーション」を見つけ出して、それを削除しなければなければならない。そこで、そのアプリケーションを見つけだすために、起動の過程を記録しているBOOTLOG.TXTを調べた。すると、いろいろなsysファイルをロードに成功した後、
 C:\PM52J\WIN9X\PMAGICBT.EXE Starting
で止まっている。これだ!というわけ。これが「Pre-OSアプリケーション」だったんだ。また、フロッピーでDOSを起動、Aドライブから「パーティションマジック」のディレクトリC:\PM52J\WIN9Xに入り込んで、この\PMAGICBT.EXEファイルを削除した。これで大丈夫、と思って再起動。

 だが、まだダメだった。もう「Pre-OSアプリケーション」は起動してないが、今度は「標準のWindowsに戻るには、実行中のアプリケーションを終了するか、もう一度Winと入力してください」という警告。そこで、WINと入力すると、C:\PM52J\WIN9X>のコマンドラインになってしまい、何度winと打ち込んでも、同じ警告が出て、winを受け付けない。ディレクトリをチェンジして、C:¥Windows>winとやっても駄目。BOOTLOGを見ると、C:¥WINDOWS\COMMAND\NLSFUNC.EXE Startingで止まっている。これを、別の正常なWindows98マシンのBOOTLOGと比較してみると、ここまでは同じで、その後、正常ならLoading Vxd = VMMと続いて、VxDに次々にいろいろな.vxdが読み込まれて行くところが、このマシンではそこで切れてしまっている。つまり、VxDにVMMがロードされないで、そこで止まっているというわけ。

 VxdとかVMMとか、これは何だ?
 本を見ると、VxDは「仮想なんでもドライバ」というもので、ディスプレイ画面などを管理しているという。そして、VMMは「仮想マシンマネージャ」といい、どうやらWindowsの心臓部ということだ。心臓が読み込まれないのでは、Windowsは起動できないのも当然だ。しかし、何故、そこで切れてしまうのか?という疑問。BOOTLOGを見ると、「HIMEM.SYS」とか、「JFONT.SYS」とか、いろいろなシステムファイルが読み込まれて来て、NLSFUNC.EXEがスタートしたところで止まっている。NLSFUNC.EXEというのは、どの本にも説明が出てない。そこで、環境設定ファイルのCONFIG.SYSとAUTOEXEC.BATを調べることにした。すると、何とCONFIG.SYSの最後に「MS-DOS = SINGLE」と書かれているではないか。これだ!これだったんだ!この一行のために、いくらwinを起動しようとしても起動できなかったのだ、とコマンドラインでeditを起動して、CONFIG.SYSのこの一行を削除して保存。そして再起動したら、ようやくのことでWindows98の設定画面まで行き、その後数回再起動を繰り返して、Windows98は復旧した。時間は、午後3時を回っていた。麻理さんのメールその他のデータは無事だった。そして、Dドライブは消え、Cドライブは3.5GBになっていた。





 

2001年10月8日

 コスモスが枯れはじめて、秋は早足という感じ。


Perl&CGIの本
 枯れはじめたコスモスの花。

 とうとうアメリカ・イギリスのアフガニスタン・タリバン攻撃が始まってしまった。ブッシュ大統領の「忍耐」を強調する言葉が耳に残った。その前に、NHKテレビの「水を金にかえる男」というボトルウォーター・ビジネスを世界的に展開しているアメリカ人を軸にした番組を見ていて、資本主義の進み方に割り切れない気持ちになっていたところだった。番組では、インドの水道局が貧しい人たちに充分に給水しないで、ボトルに入れた水を売り出している所とか、フロリダ州でボトル会社が水を汲み上げ過ぎて、周辺のオレンジ畑が渇水したりで、住民と争いになっている所などを紹介していた。その男はそれらのウォータービジネスにコンサルタントとして関わっていて、困る人が出ようが、争いが起ころうが、ビジネスはビジネスだとして、「資本主義の自由」を主張していた。インドでは、重い水の入ったバケツを頭に乗せて運ぶ少年少女の姿があった。空のバケツを持って走り去る給水車を追いかける少女達。本当に、「忍耐」をもってしても、武器でテロリストを殲滅できるのだろうか。日常生活は地域にある。その地域が落差を生む。テロは地域的に起こされる。地域を超える金銭と武器、地域に限定される落差とテロ、この対称がはっきりとしてきた感じ。

 昨日は久し振りに暇が出来て、「独習Perl」の「演算子」と「制御」というところをやった。加算減算乗算除算、また一致不一致の比較などを変数で行い、それを「while文」や「until文」に組み込むという練習。徐々に値を増やしたり減らしたり、パスワードの認証に使える「一致すれば真(OK)」とか、まあコンピュータの論理のおさらいをしたわけ。昨年わたしは「C言語」を一通りやっているから、この辺りは躓かないですらすらと進めた。Perlはスクリプト言語なので、変数宣言がメモリアドレスと関係ないようで、文字列の前に「$」をつければ、数値でも文字列でも入れることが出来るらしい。「$」をつければ何でも入れられるなんて、アメリカ流だな、と感心した。MSDOSプロンプトでC:¥pl_work>editと打ち込むと青いエディター画面になり、そこでスクリプトを書くという作業はパソコンとつきあい始めた頃の気持ちになれて新鮮だった。



2001年10月1日

 時間が経つのが速いが、これは質の違う時間?。


Perl&CGIの本
 秋雨に濡れるコスモスの花。

 同時多発テロからもう3週間が過ぎた。新聞には、ワシントンで戦争反対のデモがあったと報じられていた。また、爆弾の代わりに食料を投下するという記事も出ていた。戦争をしないでテロ撲滅の方向に向かってくれることを願う。わたしの生活も、詰め先の大学の後期が始まって、3週間が過ぎ、既に来年度の入試や授業に向けての準備が始まりつつある。会議が連続する慌ただしい時間が過ぎて行く。それは、わたしにとって自分の関心事に熱中していられるということではないので、ふとしたところで、自分は何をやっているんだろうという思いも湧いてくる。もの思う秋の始まり、かな。いや、違う、質の違う時間が始まったという感じもする。

 さて、昨日はショッキングなことが起こった。家の麻理さんが「わたしのメールの送信済みアイテムは何処に行ったの」というので、ぎくっとした。実は先週、麻理さんがメールの遣り取りに使っていたパソコンを別のパソコンに代わって貰って、元パソコンのCドライブをウイルスに感染したので初期化して、新たにOSをインストールしてしまったのだ。この8月に彼女が使っていたパソコンがどうもおかしくなったので、彼女用に別のマシンを用意して環境を整えてそちらに移れるようにするために、彼女のメール、ブラウザのブックマーク、データファイルは全て移してバックアップしたつもりでいた。元のパソコンがいよいよおかしくなって、ウイルス感染以外考えられなくなったので、昨日から彼女は、彼女にとって新規のマシンに移った。そして、メールを出そうと思ったら、「受信トレイ」はあるが内容が違うし、「送信済みアイテム」には、これまで自分が書いてきたメールが見あたらないので、LANを伝って、前のマシンに行ったが、そこには何もないので、「あれは何処に行ったの??」となったわけ。わたしは、バックアップしたフォルダからインポートすればそれで済むと思って、インポートしてみたが、それには一昨年までのメールしかなく、去年と今年の分が全くなかった。間違ってバックアップしたのか、と慌てた。こういう時って汗が出るんですね。彼女は彼女でがっくりしている。彼女は、自分の考えやその他いろいろな記録を、友だちに出したメールに日記のように書いてきたと言うのだ。だから、それが失われたということは、自分が失われたように感じると、すっかり悄気かえってしまった。そのがっかりした彼女の姿がわたしにはショックだった。パソコンは全てを一挙に無に帰してしまう。心に与える打撃は大きい。正に架空の災害に遭い、それが心に打撃を与える、ということが平穏な日常の中で送る。恐ろしい。

 昨日、Cドライブを初期化する前に、改めてメールフォルダをバックアップしておけばよかったのだが、「送信済みアイテム」に余り重きを置かないわたしは、メールアドレスと受信ファイルばかりに気を取られていた。そこに、彼女との意識のズレがあったことも浮かび上がってきて、ショックが重くのしかかってくるような思いになった。しかし、わたしは気を取り直して、自分ではすっかり忘れていても、何処かにバックアップしているかも知れないと、麻理さんが新規に使うようにしたマシンのフォルダを一つ一つ開いて調べていった。すると、そのマシンの外付けのHDDのDドライブに、独立した「Outlook Express」というフォルダがあったので、それを開くと、そこに探していた「送信済みアイテム」があるではないか。思わず、「あったよー」と大声で彼女を呼んだ。インポートしてみると、何と1000を超えるメールの数、この数のメールが無くなったと思ったのだから、彼女ががっくりするのも無理はないと思った。それにしても、ファイルが残っていて本当によかった。まったく、やれやれ、しんどかったねえ、の一日だった。

 反省点として、「*.dbx」で検索を掛ければ直ぐに見つかったのに慌ててしまったために、そういう基本に頭が向かわず、やらなかったということ。我ながら、コンピュータの理解が身に付いてないということ。



 
 















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