2001年9月1日から30日まで


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2001年9月24日

 Perl&CGIプログラミングに手を染める。


Perl&CGIの本
 Perl&CGIプログラミングの本。

 アメリカ合衆国が「戦争、戦争」と叫んでいる先週は、わたしはわたしで、狭い生活の中で忙しかった。17、18日は多摩美・映像演劇学科の2年生の作品発表会。プログラムはAからFまでで、19作品。完成度は今ひとつだが、目新しいものが幾つかあって、徐々に若い世代の独自の表現が出てきているのを感じさせられた。それは、昨日イメージフォーラムの卒業生の上映会で見た作品にも重なっている。自分に向ける眼が対象を見つけようとする眼に変わってきている。わたしは、忙しい中、家に帰っては、「UROKOメーリングリスト」の人たちから刺激されて、Perl&CGIのプログラミングに手を染めることになった。

 以前からPerlとCGIはやってみたいと思って、「独習Perl」という本と「CGI入門」という本は買ってあったが、そのままになっていた。それが、ここに来てにわかにやってみたい気が起こった。というのは、清水鱗造さんの「うろこ新聞」のメーリングリストに入ったら、清水さんをはじめプログラミング言語「Perl」を出来る人がいて、その遣り取りから、分からなくなったら教えて貰えるという感じが出てきたからだった。そして、自分でアクセスカウンターを作ったりその他いろいろとWebで遊べるという、大袈裟に言えば「地平線」が開けてくるような期待も生まれてきた。

 で、手始めにActivePerlというWindowsマシンでPerlが使えるソフトをインストールして、買ってあった「独習Perl」をやり始めた。ところが、第1ページの最初の「123456」という数字を単純に表示するコマンドを実行したらエラーになってしまった。

C:\Perl\pl_work>perl -e 'print 123456';
Can't find string terminator "'" anywhere before EOF at -e line 1.
本のその部分に鉛筆で「Windowsではこうならない」とメモが書いてあった。以前やったとき、わたしはここで引っかかってこの先に行けなかったのだ。それを忘れていた。今回は早速、「Urokoメーリングリスト」に質問を発信した。すると直ぐに、print以下をくくっている「’」がWindowsでは「”」でなくていけない、という返事が返ってきた。その通りにやったらうまく行った。バンザイ、というわけだが、なんだ、そんなことだったの、という気も起こる。
C:\Perl\pl_work>perl -e "print 1234";
1234
C:\Perl\pl_work>perl -e "print \"Hello, world!\n\";"
Hello, world!
「独習Perl」もそうだが、「CGI入門」も同様、PerlとCGIに関する本はだいたいUNIXベースで書かれているようだ。PerlとCGIそのものはUNIXでも、Windowsでも、Macでも変わりないのだが、小さなところで違いがあり、そこに落とし穴があるというわけ。

 Windows環境でPerlが一応実行できることになったので、今度はCGIに挑戦。しかし、「CGI入門」では詳しく書いてあることは書いてあるが、プロバイダーと契約してホームページを開いているわたしがCGIを実行するやり方が分からなかった。で、本屋に行ったら「Windowsで学ぶCGI&Perl」というCD-ROM付きの本があったので買ってきた。そのCD-ROMにはパソコン上で「httpd」を起動させるソフト「AN HTTPD」や、転送やtelnetするソフトが付いていたので、まずパソコン上でCGIをテストして、それからサーバに送ることが出来る。で、簡単な文字を表示するだけのCGIファイルを書いて、テストしたらブラウザーに表示できた。まずまずの成功と喜び、プロバイダーが指示するディレクトリに送ってテストする運びになった。@niftyの場合だとCGIファイルは「cgi-bin」というディレクトリへ送り、それを操作するHTMLファイルは「homepage」ディレクトリに送る。送ってやってみると、「ERROR」になった。何度パソコンでテスト成功しても、サーバに送るとエラーだ。また、メーリングリストの質問ということにして、メールを送った直後、CGI関連のWebサイトを見ていて、転送するとき、文字コードをサーバのOSに合わせて変える必要があることを知った。パソコンでは「シフトjis」、UNIXでは「EUC+LF(改行)」ということになっている。CGIファイルの文字コードを変換して送ったら、ようやく今度はCGIファイルが働いてくれた。ほっとして、長い溜息が出た。

 何ということない文字表示だけですが、以下のリンク先からCGIを実行できます。そのうちもっとましなものを作ろうと考えています。

CGIテスト  




2001年9月18日

 新詩集「胡桃ポインタ」が出来た。


積み上げられた詩集
 書肆山田の事務所に積み上げられた
 詩集「胡桃ポインタ」。
手彩色の詩集表紙
 一冊一冊違う手彩色の表紙。

 先週の金曜日14日に書肆山田から電話があって、詩集「胡桃ポインタ」が出来たということだった。早速、その日の夕方、祝杯のワインを一本買って、池袋にある書肆山田の事務所に駆けつけた。今度の詩集は、一冊一冊の表紙と挿し絵を海老塚さんが手彩色で描いてくれたので、出来上がりはどうなっているかと、ワクワクする思いだった。地下道を抜けて、群がって下校する専門学校生の集団を縫って書肆山田のあるマンションの前に近づくと、歩道に書肆山田の鈴木一民さんがいて手を振った。わたしが何時来るかと待っていたわけ。珍しいといえば珍しい。事務所に入って、積み上げられた詩集の包みの一つを開いて、10冊ほど机の上に並べた。華やかながら引き締まった図柄が、次から次へと眼を誘って行き飽きない。綺麗だ。それから、一冊手にとって開いて挿し絵を見る。これも一冊一冊違うから、そこにひろげられた全部の詩集の挿し絵を見ることになった。これも息を呑むような美しさだ。この詩集が店頭に並べられた場合、表紙にはプラスチックのカバーが掛けてあるから、表紙の手彩色には気が付かなくても、この挿し絵の彩色には気が付いて、それから表紙に戻り、そこでまた改めて驚くということになる、「それはまた素敵で、いいじゃない」と思った。

 そして、そこに積み上げられている全てに詩集を見たくなったが、それは著者でも出来ないことなんだ。では、この詩集の一冊一冊の違う絵を全て見ることができた人はいないのか、というと、それがいたんですね。描いた絵を乾かすために運んだ海老塚さんの奥さんと、製本をやった人。鈴木一民さんの話だと、製本屋さんは「仕事でこんなに楽しめたことはなかったですよ」と言ったということだった。その仕事を楽しんで貰えたと聞いて、わたしはほんとによかったなあ、と思ったのだった。それから、50冊ほどサインして、事務所の千田さん、大泉史世さん、鈴木一民さんと買っていったワインで乾杯した。わたしは10代の終わり頃から抱いていた美しい本をへの憧れがまた一つ叶えられた、と思った。素晴らしい詩集が出来上がって嬉しい。900枚の表紙と900枚の挿し絵を描いた海老塚さんに感謝、それを本として実現してくれた書肆山田の大泉さん一民さんに感謝。また次の詩集に向かって詩を書こう。

 鈴木志郎康詩集「胡桃ポインタ」(書肆山田発行、2001年9月刊)127ページ、定価3000円+消費税

 先週は、アメリカ合衆国で起こった同時テロのニュースで気もそぞろな思いで過ごした。二つのビルに飛行機が突っ込んで、ビルが崩れていくテレビの映像を何度も見た。イメージとして実感からどんどん遠くなって行く。そして、合衆国は一歩一歩報復の戦争に向かっている。始まれば泥沼になりそうな感じがする。21世紀って宗教戦争の世紀になるのか、という思いが走る。テロで死んだ人は痛ましい。テロには怒りを感じる。でも、戦争になれば更に多くの人が死ぬことになるのだろう。そういうことは避けたいと思う。やられればやり返したい気持ちは分からないことはないが、だからといって「報復」の道を進むのでなく、それを超えた「叡智」を働かせる道は無いものなのだろうか。ブッシュ大統領の談話はそういう「叡智」というものからほど遠い感じがする、と思うのはわたしだけだろうか。





2001年9月10日

 「二十世紀数学思想」という本を読んでしまった。


洋なし
 色と形に引かれて買った洋梨
「20世紀数学思想
 佐々木力著「二十世紀数学思想」

 先日、歯医者の帰りにスーパーに寄ったら、洋梨が売っていて、色と形に引かれて買ってきた。テーブルの上に置いて写真に撮った後、早速包丁で皮を剥いて食べたら、ごりごりで、「食べられたものじゃない」という感じだった。それから3、4日経って、やや黄色ぽっくなったので、食べたら、口の中でとろけるような感じだった。皮を剥くとき、手が滑って危ないが、つるりッと口の中に滑り込んでくるのは何とも言えない。

 もう夏休みが終わった。その最後の読書が佐々木力著「二十世紀の数学思想」(みすず書房 2001年4月刊)となった。夏休みなる前にはこのような本を読むとは考えもしなかった。「線形代数」の「写像」ということに出会って、全く縁がない未知の世界だった数学に興味がどんどん進んで行き、「二十世紀の数学思想」というような本を手に取ることになったわけ。読み始めたのが9月4日で、この本の第一章の始めのところで、1930年の9月4日から6日までバルト海に面した現在のカリーニングラートという町で、ドイツ数学会の会合「ケーニスヒベルク会議」が開かれて、そこで行われた三つの講演が数学の歴史に新たな1ページを書き加えた、と書かれていた。「おお、日にちが重なってるじゃないの」と読み始めの気分をぐっと引き込まれた。

 1930年の9月5日金曜日午前9時から始まった三つの講演では、ケーニヒスベルク大学の「第三大講義室という階段教室で、三人の招待講演者が次々と数学基礎論についての自らの学派の立場を簡明に解説していった」ということである。発表者の一人は後に原爆や水爆を作るためにコンピュータを制作したフォン・ノイマンだった。また、そこには後にその数学基礎論に決着をつけた「不完全性定理」を発表するゲーデルもいた。そういう人たちが現実の場で会って話したり、論争したりしているのを読むと、数学の内容については分からなくても、ドキドキして引き込まれていく。「二十世紀の数学思想」は現代数学の内容についても正確に書いてあるらしいが、数学者の人となり、その学問的立場や考え方なりをもとにして書いているので、数学が分からなくても面白く読めた。20世紀の数学の流れが、基礎論というものの成立から、応用数学に展開して、フォン・ノイマンらによるアメリカ合衆国の「軍─産─学複合体(コンプレックス)」の成立までとして描かれている。特に後半の半分近い129ページを使って、フォン・ノイマンの数学者としての活動を描き出し、彼の社会的責任を批判し、「死のテクノロジー」を生み出した「テクノロジー・オプチミスト」として糾弾している。この数学者の社会的責任問題、つまり「フォン・ノイマン問題」は未だ未解決のまま、21世に持ち越されたというのが結論となっている。これは、わたしにとって驚きだった。そして、この本の著者である佐々木力さんのような人が日本にはいるんだと、心に残った。



2001年9月2日

 野々歩はTシャツを作り、わたしはパソコンを直す。


野々歩が作ったTシャツ
 野々歩と彼が作ったTシャツ
Tシャツの絵柄
 Tシャツの絵柄

 人には誰でも日常茶飯事ということがある。一方に仕事ということがあって、仕事より日常茶飯事の方に顕著に人柄が出てくる。好みとか気性とかが茶飯事のあり方に現れてくる。自分というものから逃れられないなあ、という思い。今回、先ずは息子の野々歩が徹夜でTシャツの絵柄作ったという話、そして壊れ掛かったパソコンに二日も費やしたというわたしの話。それが何処か似ているから可笑しい。

 アルバイト先の「シアター・イメージフォーラム」から帰ってきた野々歩が、額から汗を流したまま、「DVから静止画像を取り込んで、合成写真を作るやり方を教えてよ」と言った時はもう夜の11時を過ぎていた。同僚の原田君が急に職場を辞めて沖縄の母の元に帰ることになったので、Tシャツを作って贈る、その絵柄を作りたいのだという。「Photoshopのレイヤーを使って一枚一枚処理して重ねていけばいい」と教えて、パソコンの前の席を彼に譲って、わたしが寝てしまった。実は、この時既にわたしは3年前に中古で買ったパソコンDELL Optiplex GXProのトラブルに巻き込まれていたのだったが。

 彼はわたしが寝てしまってから、翌朝まで掛かって、職場の人たちを撮影してきたDVから一人ひとりの姿を静止画に取り込み、それを組み合わせて、職場の人たちが全員入った記念撮影的な合成画像を作り上げた。そして、ちょっと仮眠してからTシャツを買ってきて、絵柄貼り付ける「アイロンプリント」に印刷して、それをアイロンでTシャツに熱写した。去っていく人に贈るものとして、いいアイデアだ。「それ、ホームページに載せてもいいかな」と聞くと「いいですよ」とですます調でちょとはにかんで、自転車で持って行った。

 わたしのパソコンのトラブルは、

Warninng: DELL's Monitaring System has detected that drive 0 on the primary EIDE controller is operating outside of normal specifications. It is advisable to immediately back up your data and replace your harddisk drive by calling support desk or Dell Computer Corporation.
という「警告」が現れた時に始まった。初めて見る警告だった。つまり、Cドライブが異常でWindows98が起動できないというのだ。ディスクを「scandisk」でスキャンすると、クラスターの不良が次々に起こり、途中でついに「scandisk」自体が壊れてしまった。CドライブにしていたEIDEのハードディスクの一つが壊れたというわけ。もう一つついているハードディスクは生きているが、BIOSが「Hard disk drive 1 failure」と返して来て、認知してくれない。3年前のパソコンは今売っている20GBとか30GBという大容量のハードディスクが使えない。つまりハードディスクを交換することができない。ハードディスクを交換しないで、このパソコンを延命できる道はないか。そこで、ハードディスクを取り外す前に一計を案じた。EIDEのハードディスクが駄目なら、外付けのSCSIハードディスクにどのドライブからでも起動できるWindowsNTをインストールすればいい、という思いつき。

 中古パソコンについていたWindowsNT4.0のCD-ROMを探し、そのプロダクトナンバーを探し出して、外付けのディスクの一番最後のドライブに何とかインストールした。ところが、再起動してみると、立ち上がらない。BIOSの設定を見ると、起動ディスクとしてはフロッピーディスクかEIDEディスクしかサポートされてない。やっぱり駄目かと諦めてスイッチを切った。ところが、どっこい、もう一度スイッチを入れると、今まで何処に潜んでいたのか、「System Commander」という、パソコンにいろいろなOSをインストールした場合、起動するOSを選択できるというソフトが立ち上がって来たのだ。駄目になったディスクのCドライブにインストールしたソフトだ。それがインストールしたばかりのWindowsNTを検出して立ち上がったということらしい。そういえば「System Commander」はディスクの頭にインストールされるというから、駄目になったディスクも頭だけは生きているということになる。これで、NTマシンとして使えるという喜びも束の間、NTの「Service Pack 3」でアップグレードしたらもう起動できなくなってしまった。「SP3」がブートローダーを壊してしまうらしい。「Service Pack 3」でアップグレードしなければ、今では他のアプリケーションはインストールできなくなっている。従って、NTマシンで使うことができない。一瞬、希望が差したかに見えたが、やはり駄目かと、一日中復旧に向けて費やしたその日は諦めの気持ちで終わった。

 翌日、駄目になったハードディスクを外し、外付けのハードディスクを他の自作パソコンに接続して、画像データなどはそちらで処理することにした。そして、残ったEIDEディスクだけのDELL Optiplex GXProを何とか生かそうと、先ず、フロッピーディスクでディスク操作ソフトの「Partition Magic」を立ち上げて、ディスク状態を調べる。前半のパーティションはFATでフォーマットされているが、後半は「その他不明」となっていたので、この後半の部分をフォーマットする。幸いクラスターに異常はない。EIDEディスクの位置を決めるディップスイッチも確かめる。しかし、BIOSは相変わらず「Hard disk drive 1 failure」という反応。このfailureは、OSがインストールされてないからかと、今度は新たに「WindowsME」をインストールした。これは、フロッピーディスクで立ち上げてのインストールだから難なくできたが、再起動でやはり「Hard disk drive 1 failure」となってしまう。しかし、コマンドラインに「Strike the F1 key to continue, F2 key to run the setup utility」と出ている。また駄目かと思ったが、F1キーを叩くと、WindowsMEが立ち上がった。オーケー、行かれたかと思ったDELL Optiplex GXProはWindowsMEマシンとして、未だ使えるぞ、というわけで、何とか復旧できた。「Hard disk drive 1 failure」は続いているが、とにかく立ち上がるんだからそれでいい、とすましている。デスクトップの背景には崩れかかったボロ小屋の写真を使った。

 DELL Optiplex GXProというマシンは、自分でCPUをアップグレードしたりしているので愛着がある。でも、こマシンでなければ出来ないということは何もない。道具とは別のものという感じ。WordとExcelとかインストールしたけど、このマシンにはデータは何も入っていない。このマシンでは余りデータは作らないようにしよう。他のパソコンでやると怖いから、このマシンで試してみようというように使う。パソコンって一つ間違えるとどうしようもなくなるということある。マシンとしてまだまだ未熟なんでしょうね。



 
 















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