2002年8月1日から31日まで


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2002年8月28日

 コンピュータ音楽への関心が生まれる。


木槿の花
 ちょっと崩れた木槿(むくげ)の花。
「The Computer Music Tutorial」
 分厚いCurtis Roads 著「The Computer Music
Tutorial」 の本。

 木槿の花の名をどうも覚えられない。毎年、花が咲くと「この花、何という名だっけ」と聞いてしまう。どうしても名前を覚えられないという人がいる、よく知っているのに名前が出てこない、という人。そういうのって、もしかしたら「名前が覚えられない」という記憶になっているのではないかと思ってしまう。記憶に残らないという記憶、そういうことってあるのかもしれない。言ってみればゼロ記憶という記憶ですね。木槿は好きな花なんですが。

 先週から今週に掛けて「コンピュータ音楽」という言葉を追いかけていた。この9月7日と8日に三軒茶屋にある「シアタートラム」で多摩美の映像演劇学科研究室の若い人たちと卒業生を交えた映像と身体パフォーマンスの「カラザ02」の上演がある。先週、そのスタッフ打ち合わせ会議で、音響を担当する永井優樹君が今回は「SuperCollider」を使って音作りをやってみると言って、「SuperCollider」の説明を始めたのだったが、「オブジェクト指向」のスクリプト言語を使ってサウンドを作ったり作曲したりすると聞いて、わたしは思わず耳をそばだててしまった。彼は、iBookを使って実際に「SuperCollider」を起動して音を出して聞かせてくれたが、何と書かれているスクリプトをマウスで選択して、エンターキーを押すだけで音が出ているのだ。「面白い!」と直感して、会議が終った後、詳しく聞いてみると、Mac用のフリーソフトで、インターネットでダウンロードして使えるということだった。その夜、家に帰って早速ダウンロードして「Exemple」をやってみた。そのスクリプトというのは変数や配列やメソッドを使う形をしていて、どうやら引数に入れる数値で音を作っていくように読めたが、何がなにやらさっぱり分らない。でも、新しいものに触れて、音が出せただけで満足して寝た。

 翌日、「SuperCollider」のフォルダーの中にある英語の説明書を辞書を片手に拾い読みしてみた。そのスクリプトというのは


(
{
	// 10 voices of a random sine percussion sound :
s = Mix.ar(Array.fill(10, { Resonz.ar(Dust.ar(0.2, 50), 200 + 3000.0.rand, 0.003)}) );
	// reverb predelay time :
z = DelayN.ar(s, 0.048);
	// 7 length modulated comb delays in parallel :
y = Mix.ar(Array.fill(7,{ CombL.ar(z, 0.1, LFNoise1.kr(0.1.rand, 0.04, 0.05), 15) })); 
	// two parallel chains of 4 allpass delays (8 total) :
4.do({ y = AllpassN.ar(y, 0.050, [0.050.rand, 0.050.rand], 1) });
	// add original sound to reverb and play it :
s+(0.2*y)
}.play )

というようなもので、( )内をマウスで選択して、ナンバーのエンターキーを押すと、残響音の中にガラス玉とピアノの音が零れて行くよういなサウンドが響いた。そうか、スクリプトで書いて音を作ることができる、とちょっと興奮した。楽器が使えないわたしにとっては正に「福音」のように思えた。それにしても、わたしはコンピュータの音楽については、3年ぐらい前にヤマハの「めちゃらく作曲名人」というソフトを買ってきて遊んだぐらいで、全く知識がない。「SuperCollider」の数値を処理するためには、何か知識が欲しい。そう思って、「intro」の文書を読んでいると、digital sound synthesisということが始めての人なら、Curtis Roads著"The Computer Music Tutorial"を読むべきだと書いてあった。そこで、この本を早速Amazon.co.jpで注文したのだったが、それが注文した2日後に届いて、1234ページもあるその分厚さに吃驚した。とても全部読みこなせそうにないが、コンピュータ音楽の歴史から、基本概念など全部網羅されているようだから、無駄になる本ではないと思える。それにしても、アメリカで発行されているコンピュータ関係の本ってどれもこれも分厚いのには毎度ことながら驚かされる。

 それから、日本でも「SuperCollider」を使っている人がいるはずだと、Webで検索したら、一つだけ見つかった。しかし詳しいことは書いてなかった。それより、Windows用のこういうソフトはないものかと探すと、「Csound」というソフトが見つかった。これもフリーのソフトで、ダウンロードしてやってみた。こちらは orchestra fileと score fileの二つのファイルをテキストエディターで書いて読み込ませるというものだ。sampleの二つのファイル読み込んでレンダリングしたら「SAMPLE.WAV」というファイルが出来てきゅーんという音だった。こちらはスクリプトではなく、周波数とか強さとか長さとか、あとよく分らないが、演奏の仕方とデータを数値と記号で表したものを書き込む。これを使いこなすにも、音をデジタルで表すときの基本的な知識が必要だということが分った。しかし、楽器でなく数値で音を作るというのは、これも楽器が使えないわたしにとっては非常に魅力的だ。

 とにかくコンピュータ・ミュージックについて勉強しようと本屋に行ったみたが、見つけ方が悪いのか、殆ど見あたらなかった。一冊分厚い本があったが、ぱらぱらと見てわたしに理解を越えた本だった。とにかく全く知識がないのだからと、上原和夫著「コンピュータ・ミュージックの世界」という入門書を買ってきて読んでみた。最初のところに歴史が述べられていて、次に機器の説明というところで書かれているコンピュータが、初期の頃のMacの「Macintosh Centris 650」で「(1993年現在)」となっていた。おやおやと思って、この本の発行年月日を見ると1993年6月10日だった。すべてが当時の最新のこととして書かれているのだ。その感じが面白い。読み進めていくと、10年前の作曲支援ソフトなどの解説があり、世界のコンピュータミュージシャンやスタジオやフェスティバルの紹介があった。全然知らないことばかりだったから、なるほどなるほどという感じで読めた。そこに出ていたソフトや音楽家をWebで検索してみるのも楽しかった。特に、「M」という作曲ソフトが人気があって、それを使うためにわざわざ古いMacを買い求める人もいるので、PowerMacに適合するようにアップグレードしたものが小さなソフトベンダーから売り出されているということだった。そういうのを復刻版というのだろうか。パソコンも時代を重ねてきたというわけ。

 今まで、道玄坂のヤマハに行って、MIDIの機器やソフトを見ても全然分らないから、ただ遠くから眺めるだけだったが、なんか触れるところまで行かれる道が見えてきたような気がしている。また一つ、コンピュータの楽しみが増えた。






 

2002年8月21日

 女の詩集と男の詩集。


蔓だけの朝顔
 蔓ばかり伸びる朝顔。

 女の詩集と男の詩集、という言い方は、女の愛と男の愛と言い換えられるような二冊の詩集ということ。須永紀子詩集「至上の愛」(2002年8月 ミドナイト・プレス刊)と井上弘治詩集「約束」(2002年8月 ミドナイト・プレス刊)を読んだ。二冊の詩集を続けて読んで、それぞれ全く別の詩集なんだけれど、大人の女と男の詩集として対をなしているように感じてしまった。須永さんは、家庭の主婦で、個人詩誌「雨期」を主宰している詩人。須永さんの詩は生活をベースにしたところでの心の動きが伝わってくるのがいいなあと思って読んできた。井上さんは、編集プロダクションの経営者で、詩誌「感情」の同人。井上さんの詩は、感情を遠いところまで飛ばせるロマンチックなところがいいなあと思って読んできた。この二冊の詩集が「対をなしている」と感じたのは、両方の詩集に「約束」という同じ題名の詩があったこと、また「あなた」とか「きみ」とかという二人称の代名詞が繰り返して沢山出てくるので、そこに愛の表現が語られていると思えたところにある。

 須永紀子さんの「約束」  

約束
                須永紀子
                
(月のようでいてください)と男は言った
わたしは心底うれしく
ただそこにいて
まわりを明るませればいいのかと思ったけれど
そのうえに心をいくつにもくだいて
捧げるようにというのだった
理不尽な気がしないでもなかったが
男のことばは胸に温かく灯った
何をもってしても
それを消すことはできないだろう
白い衣を着て上座につき
わたしは心をくだいた
男が満足している間
とっさに破片のいくつかを握りしめる

穫り入れの季節がやってきて
わたしは畑に出ていった
風が髪をくしけずり
手足を雨水が洗う日々
これがほんとうの暮らしだと思った
泥色の身体。
おっとり微笑している暇もなくなって
男はもうわたしを眺めない
深い泥の眠り。
畑にも茅屋の上にも
月の光がやわらかくそそいでいる

静かな雨の降る朝
わたしは外に出て
通りがかった人に破片を渡そうと思う
肌身はなさず隠しもっていたけれど
それはひふを傷つけるばかりで
もしかしたら所有するものではなく
誰かが手にして初めて光るものではないか
確かめてみたいが
男に知れたらわたしは追われ
濡れた地面に転がって
やがて溶けて消えてしまう
それは嫌だとわたしは思う
新しい心をくだいて差し出せば
男はまたうっとり眺めてくれるだろうか
それでも赦さないと言うのなら
殺めてくれてもかまわない
わたしは白い光になり
あまねく地上に降りそそぐだろう

月のようでいてほしいと男は言ったのだ
次に、井上弘治さんの「約束」

約束
                井上弘治
         
この坂を登って
あなたの髪に白鳥が飛び立つ
そんな幻を見るほど
散文的な気分ではなく

追いすがる記憶に追われ
降りしきる花雨に追われ
ふり払い
ふり向く
そんなあなたの輝く春の髪を
遅すぎた指さきて繰り返し梳く
感触のない夢の切れ端が
記憶の指さきにからみ
ふり払い
ふり向く
そこにない坂
そこにない思い出から降りしきる
花びらからも遠く離れ
古典のように生きる生活

(もういちど生まれてきたら
(もういちど逢いましょう

なぜそんな約束だけが
不意に訪れるのか…
神と坂と青空のすき間
降りしきる記憶
花びら

(もういちど生まれてきたら
(もういちど逢いましょう

 同じ「約束」でもかなり違う。この違いを面白いと思いませんか。実は、この二冊の詩集について何か書こうとして考え始めたら、結構難しいなあと思えてきた。「至上の愛」を読んだ直後、生活者としては家庭に閉じこめられている中年の女性が感じる脱出願望みたいなもの、現実的に脱出を願っているわけではなく、気持ちの上で別の世界を求めていることを、豊かな読書体験で身につけた「虚構を語る言葉」で語った詩集と受け止めたのだった。その言葉の主軸をなすのが、生活を共にしているうちに変貌した「夫のイメージ」で、夫が100パーセントの存在でなくなったことによって、足りない分を言葉で作り上げていくという語りの展開になっている。そうのように語り出された「男性」の存在が、観念的な理想というのではなく、自分という存在を生活を超えたところに救出してくれる官能的な存在として語られているとういうわけ。須永さんに取っては、その存在は「音楽をする人」ということで、その「音楽」が「ことば」として、自分が書く詩の「ことば」と重なっていく行くのを願っているように思えた。「生活」と「それを超えたところ」とういう二つの位相を詩が抱え込んできている。ここが読み取るのに難しいと思えたところだし、魅力の源泉になっている。

ザクロ
            須永紀子
            
青い闇がひろがって
駅前広場が降りてくる人でいっぱいになる時刻
夕飯の買い物をした足で上り電車に乗った
車両がホームをすべりはじめたとき
別れということを思う
けやき並木。東向きの窓。わたしの小さな家。

銭湯に行こうとしていた女が
予定を変更して恋人に逢いに出かけてしまう
という話を読んだことがある
石鹸入りの桶を抱えたまま
女は電車に乗るのだった
わたしはスーパーマーケットの袋をさげている

男のいない男の部屋は
真夜中の駐車場のようだ
ここでは何もすることがない
壁にもたれてじっと帰りを待つ
室内のすべてはよそよそしくそこにあり
向こう岸のもののようにみえる
持ち物の一つにでもさわったら
そのまま不器用でまっすぐな暮らしに突入してしまうだろう
そうなったら一度通った道だ
外すことはないと思う

台所の流しで歯を磨き、ひとつの毛布にくるまって眠る日々
二十世紀の音楽が夢のようにわたしたちを満たし
なおもあふれている部屋で
人々の耳をやさしく浸す音楽を作るのだと恋人は言い
手書きの楽譜を見せてくれた
部分的に美しいとわたしは思ったが
きみは音楽がわかっていないと彼は言った
世界の深さをまだ知らなかった
草原を渡る風の音も濡れた夢の重さも。

それを知った今では外さずにやっていけると思う
まだ戻らない男は音符を書かないが
やわらかな若い耳を持っていて
世界の深さもじきに理解するだろう

けれど
わたしはビニール袋をさげている

 詩人は、この存在との関係の持続を「外すことはないと思う」と二度繰り返している。読み取るのが難しいと思うのはここのところではないだろうか。「あとがき」にこの詩集の題名「至上の愛」の由来が書いてあって、同時テロの後、アメリカ各地で開かれた亡くなった消防士たちの追悼集会のニュースを見たとき、そこで流れていた歌の題名が「AMAZING GRACE」といい、邦訳では「至上の愛」ということだ。

 「音楽はいつもわたしたちを包んでくれる。音楽のような詩が書ければいいと思う。長く心の底にとどまって、いつか思い出したときに何かの力になるような詩。そういう願いを込めて『至上の愛』というタイトルをつけた。」

詩人は詩を書く上で自分の気持ちを元にして言葉を語っているが、それが「何かの力になるような詩」になることを自分が望んでいるのを自覚した。わたしのこの詩集の最初の受け止め方は、詩人個人の心情が語られているのもということだったが、詩人の意識は読者であるわたしの意識を越えていたというわけ。詩の言葉が生活の次元を越えて広がっていくことを望んでいる。現実に即したところでは捉えきれない言葉が含まれた詩を読み進めてきて、この「あとがき」に至って、わたし自身詩を書く者として、心が打たれた。

 井上弘治さんの詩集は、複数の女性に感じた恋心を綴った詩を一つに纏めたものと感じた。「パートT」の詩の相手の女性は一人のように思えるが、「U」では複数に感じられた。詩は、それぞれ違う相手によって心の中に湧き起こった思いを述べている。その思いというのが、相手の人を思い、自分の気持ちを訴えるというより、現在自分が生きているということの意味合いを探り出そうという思いと読める。場合によっては、自分の社会意識を語っているように思えるところさえある。同性の男性には語れないところを、恋を感じた女性だから語っているように感じられるところもあった。愛を感じた女性とまともに向き合っているという感じだ。つまり、平たい言葉で言えば、男性特有のシャイな「純情」が感じられるということ。井上さんの詩の魅力がそこにある。詩集の冒頭に置かれた「神話の過ち」という題名の詩は

神話と恋文をとどけた
憎しみと過ちもついでにとどけた
ライラックは四月に花をつけ
きみの肩で爆ぜた
(秘密を持ち歩くことも死んだ人のためにやめた

という書き出しで始まる。ライラックの花が「きみの肩で爆ぜた」というのが恋の発火だろうか。きみに「神話と恋文」、それに「憎しみと過ち」を届けたといううのだから、感情の動きは圧倒的だ。その内容は読者には解らないが、「(秘密を持ち歩くことも死んだ人のためにやめた」という決意が述べられているのだから、この恋には死者が関係していると思われる。そして二連以下は次のように展開する


遠い日の戦争で
父は死んだ
あの戦いは五十年もかけて父を殺した
だからきみは
恋人と別れて神話の編纂にいそしんだのだ
花はなぜ香るのか
ひとはなぜ生きるのか
春の都で成功して
妻と家とこどもを持った
(魂より重いもの

神話の涯で破り捨てられた恋文
安物の懐中時計は
時のかたみのように
思想の柩とともに焼かれた
ライラックは四月に花をつけ
きみの肩で爆ぜた

そして最もつらい人間の時代に
だれも人間をやり直そうとは
言わなかった
なぜ花は香るのか
ひとはなぜ生きるのか
神話の涯の黄昏にライラックはなぜ
散るのか…
破り捨てられた恋文のように
風にちぎれて

詩全体を読むと、そうか、最後に「神話の涯の黄昏にライラックはなぜ/散るのか…」とあるから、「ライラックの花が爆ぜる」というのは失恋のことだったのか、ということになる。死者というのは、どうやら時代の位相で語られているようであり、その時代の何事かにこだわることで恋がさまたげられて行くというわけだ。そうあってはないらないと、詩人は、もっと自然の摂理に任せてその時々の心情に生きることを語りかけているように思える。「パートT」はその失恋した人に対する思いを語った詩で構成されている。語られることは、ややニヒルになりながらも、心を生きるということは異性への思いに生きること、というところへ収斂していく。その収斂の極点が「約束」という詩の「(もういちど生まれてきたら/(もういちど逢いましょう」というありきたりの言葉というわけ。わたしとしては、井上さんは思いきって書いたなあ、と思いながら、恋する者の思いはみな同じ、という核心を感じる。だから、井上さんは、詩の作者として複数の女性との出会いに「心情」を生かすことができるのだと思う。

 二冊の詩集を読んで、男の愛が核心を得て複数の対象へと広がっていく様と、女の愛が一人の相手を通り越して他者へ広がっていく様とを見たという感じになった。変な言い方になるが、その広がっていく先に何かスリルを感じてしまうところがある。





2002年8月12日

 暑い日が続いている。


8月のバラ
 猛暑を耐える8月のバラ。

 先週咲いたバラはまだ頑張って咲いている。とにかく暑い日が続いている。9月の7日8日と三軒茶屋のシアタートラムで映像演劇学科研究室主催のダンスパフォーマンス「カラザ02」が行われるので、その稽古がこれから始まる。暑さが思いやられる。先日、その技術打ち合わせでシアタートラムに行った帰り、久し振りに世田谷線に乗って、下高井戸まで行き、そこから京王線で新宿に出た。東急世田谷線は路面電車型の2輌編成で、住宅街を走っている。沿線の家、庭の花、踏切で待つ人などが、間近に見える。雲一つ無い真夏の夕方、低くなってもかなり強い日差しが真横から射して、家の窓や植物の姿を際だたせていた。その日差しに懐かしい感じがして、暑いけど、もう既に秋の気配が漂っていた。風が遮られた下高井戸のホームで通過する電車を2本待っていると、暑くて頭がボーっとした。やっと来た各駅停車に乗って、笹塚で都営地下鉄に乗り換えると喪服の若い女たちがどどっと沢山乗ってきて、彼女たちは次の幡ヶ谷でまたどどっと降りて行った。幡ヶ谷には斎場をかねた焼き場があるのだ。わたしは新宿で降り、始めて通る地下出口から南新宿の高層ビル街を、吹き下ろすビル風の中を歩いて、紀伊国屋に行った。

 紀伊国屋に行ったのは、「SVG」の本を見つけるため。大野靖著「入門JavaScript」を読んだ後、「HTML」についてきちんと見直しておこうと思って、同じ著者の「入門WWW」を読んだ。この本も、UNIXをやっている人向けのいわば教科書のような本だったので、結構難解だった。<p>や<a>は「要素elements」であって、IDや名前をつけて扱うことができるということとか、「CSS(カスケーディングスタイルシート)」について詳しく書いてあったので勉強になった。その「CSS」を使って、「曲腰徒歩新聞」の本文の行間を少し開けてみた。しかし、WWWのサーバのことになると、さっぱり解らなかった。その最後ところで、わたしが知らない「SVG」と「MathML」のことが書いてあった。「SVG」は、「HTML」の書式をを決めているW3Cが推奨する「XML」の一種の、いわゆるドロー系のベクターグラフィックスがWeb上で書けるマークアップ言語で、Scalable Vector Graphicsのこと。「MathML」は数学の記号をWeb上に書くためのマークアップ言語。「SVG」は「Flash」と似ているが、「Flash」が有料のソフトであるのに対して、こちらはHTML同様の一般的なマークアップ言語ということ。「入門WWW」にスクリプトが出ていたのでやってみたが表示できなかった。それで、紀伊国屋に本を探しに行ったというわけ。日本語の本では見つからなかったが、洋書のところに2冊あって、その一冊の「Teach Yourself SVG in 24 Hours」というのを買った。

 この本のはじめのところを読むと、SVGの最初の草案が発表されたのが1999年2月で、まだ余り普及してないようだ。しかし、Adobeが「Adobe SVG Viewer」を出して、徐々に広まりつつあるということらしい。もしかしたら、AdobeはMacromediaのFlashに対抗してサポートしようとしているのかもしれない。Illustrator10とGoLive6.0にはこのSVG Viewerが付いているとある。本屋でIllustrator10の解説書を見たら、SVGのことがちょこっと書いてあった。SVG Viewerをダウンロードして、SVGのWebページもいろいろと見て歩いたが、これっといったものはまだ無かった。「pinkjuice.com/svg」「kevlindev.com/samples/pixelize/」などで、こういうことができるのか、という感じは掴めた。でも、本屋の最近のパソコンの書棚に増えつつある「XML」というものにちょっと触れたかな、という感じ。わたしとしては、今のところ、JavaScriptをもう少しやってから、先ずはFlashをやってみたいという思いです。





2002年8月5日

 凄い夕立。


落雷
 近くのマンションに落雷。
クリックすると落雷の瞬間のアニメが
見られます。ただし456KBのファイル
なのでダウンロードするのにISDNで
1分余り掛かります。

 2日と4日の夕立は凄い雷と雨だった。5月の落雷で家のISDNのTAがやられたの、またやられるののではないかと心配だった。光るのは兎も角、パリパリっという音には恐怖を感じてしまい、子ども頃蚊帳を吊って貰ってその中に入ったのを思い出した。地震、雷という順序を実感した。4日には気の毒なことに、岩手県では落雷で老人が亡くなったものね。

 ところで、今日から「住基ネット」が運用開始される。安全性を危惧して反対する人が多く、接続を拒否する地方自治体もあるのに政府は強行した。何で急いでやらなければならないのか、わたしにはわからない。また、その強行姿勢に腹が立つ。そして、これは国民総背番号制の始まりだ、と思いながら、為すすべもなく黙っている自分の無力を感じないではいられない。先の選挙で民主党の議員に投票したけどろくに名前も覚えてない、というわけで、どうしようもないですね。やがて、電子投票ということになったら国民番号で投票することになるんだろうけど、無記名ということが意味をなさなくなる。更に、保険証やキャッシュカードの保証にまで使われるようになると、社会的行為の無記名性がどんどん狭められて行くことになるわけ。

 わたしの場合1000円以上の買い物は殆どキャッシュカードで買っているから、いつ何を買い物したか、キャッシュカード会社にそのデータは握られている。キャッシュカードを作るとき住所氏名を書くわけだから、わたしの住民番号と結びついてしまう可能性が出てくるわけで、わたしが知らないうちに結びつけられてしまわないとは限らない。わたしの買い物行為は既にデータ化されているけど、それが「国民としての買い物」データになると気持ちが悪い。保険証の場合も、電子カルテが結びつけられると、既往症が即座にわかって便利といえば便利だけど、わたしの「個民としての既往症」となると、これも気持ちが悪い。

 最近では、お医者さんは身体を見るというより、データの数値を見るという方に傾いているけど、「電子政府」というのは「役所の合理化」というわけで、それは国民という存在をデータ化して、現実を見るよりその数値化したデータを見て政策の作成と実行を完遂させるということなんでしょうね。データと現実との間には必ず隙間がある。DNAまでわかってしまう世の中だから、データ化されないところはほとんど無くなってしまうかもしれないが、データ化されないところが必ずある。その非データ領域をどう掴まえて行くか、そこのところだ。管理や支配のベクトルはデータ化に向かっている。でも、個々の生命のベクトルは管理や支配のベクトルとは違う。それはデータ化できない多様なカオスに向かうとでも言ったらいいですかね。データ化されない無名の領域を多様なカオス状態として活性化させよう、なんだか抽象的でよくわからないスローガンになってしまった。力のない国民の韜晦的な心情のとろというところか。





   

2002年8月1日

 夏休み、といえば朝顔。


朝顔の花
 大きな朝顔の花。

 毎日、暑いですね。わたしの家のわたしが使うパソコンのコーナーには冷房が入っていません。最近常用しているWinows2000Proのマシンのハードディスクが熱のためになかなか立ち上がらないので、扇風機で風を送って、冷やすというところまで行かないけど、熱を飛ばしている。ところが、先週、ディスプレイまでおかしくなった。熱のため瞬時電源が切れるので、画面が収縮して、痙攣したようになる。そこで、また一つ扇風機を買ってきてディスプレイに向けて回すことにした。わたしに向けた扇風機がもう一つあるから、三つの扇風機が狭い仕事場の片隅になま暖かい風を旋回させている。その旋回する風の中で、わたしはJavaScriptに取り組んでいるというわけ。

 ようやく、大野靖著「入門JavaScript」を読み終わった。「My UNIX Series」の一冊ということもあって、わたしにはちょっと難しかった。スクリプトをこう書けばこうなりますよ、というタイプの入門書でなく、JavaScriptを「オブジェクト指向言語」として概説しているので、例題のスクリプトが言語体系を解らせるためのものが多く、そのスクリプトの文脈を辿りきれないものが幾つもあった。最後の方に書かれていたJava言語と交通する「LiveConnect機能」なんていうものは、ちんぷんかんぷんだった。でも、その「オブジェクト指向」という言語体系がおぼろげながら解ってきたので、更に詳細に学んで見たい気になっている。
 「オブジェクト指向」というのは、ブラウザとかウインドウとかHTMLで書かれるタグとか、それから書き込むとか表示するとかそういうことをすべて「オブジェクト」として、そこに属性や動作を持たせて、制御していくという考え方とでもいえばいいのだろうか。「ウインドウの中の、画面の中の、画像をマウスで触って、別の画像に変える」というようなことが、次のようなスクリプトでできるわけです。  

function changeImg(iName,str) { document.images[iName].src = str; }

<A HREF="#" onMouseover="changeImg('myIMG', 'image2.gif')" onMouseout="changeImg('myIMG', 'image1.gif')"><img src="image1.gif" name="myIMG" border=0></A>
 

 

「document」がウインドウの中の画面で、「images[iName]」が名前が付いたイメージタグで、「src」がその在処を示す属性で、マウスが重なる(onMouseover)と、そこに在処を示す文字列「str」が入って、画像が変わるというわけです。下の女の画像をマウスで触ってみてください。



 もっと複雑で面白いことができそうな気がする。それにはJavaScriptを使いこなさなくては、という思いが湧いてくる。そして、オブジェクトであるHTMLについても、もうちょっと知ってなくてはという更なる思い。しかし、プログラムを書くということでは、わたしには欠けていることがある。プログラムを書くという思考の流れだ。if文は何とかなっても、for(i=0; i<a; ++i)というiがaより小さい間、iをどんどん増やせというfor文となるともうお手上げ。for文が二つ入れ子になったりしたら、パニクってしまう。JavaScriptじゃ、オブジェクトの配列に使うんですよ。

 JavaScriptは兎も角、夏休み入って詩集を二冊読んだ。小林泰子さんの『ウォーターカラーズ』と渡辺 洋さんの『少年日記』。二人は小学生の娘と息子がいる夫妻。でも詩集を読んだだけでは、二人が夫婦であることはわからない。渡辺 洋さんのホームページに行って、「f451Journal」の「今年も後半」の  

 −−奥さんの小林泰子さんの詩集『ウォーターカラーズ』もミッドナイトプレスから出ましたね。
 −−彼女が、久しぶりに詩集を出す準備を、去年の秋くらいからしていたんですが、
   それを見て、作品も1冊分まとまる目処がついたので、自分もという気になったんです。

このくだりを読むと、二人の気持ちが揃ってきて、互いの詩集の誕生となったことがわかる。いいですね。『ウォーターカラーズ』は10年間で書きためた詩集、その間に二人の子供を育てて、その時々に感じ考えたことが、詩という形を取ってしっかりと書き留められている。『少年日記』は6年ぶりの詩集、こちらは「少年」と「老人」に言葉の主格を置いて、言葉に虚構的な広がりを持たせ、作者が現に今生きている社会に向ける思いを綴っている。一つの家庭を持って暮らす男女の、男は視覚の一端を家の中に置いて、その目を外に向け、女は子供たちを注視しながらも、その向こうに広がる外を見ているという構図がいい感じですね。家の中には夫婦の愛情と子供の成長があるが、外である世の中は決して自分たちが望んでいるようなものになって行こうとはしない。というわけで、母親である詩人は子供たちを守る姿勢で母と子の関係を着実に言葉で刻んでいる。彼女の家庭のイメージは孤立している。それは、詩集の最後にある「箱船」という詩の冒頭に

高層マンションの五階にある我が家は
鉄筋コンクリート製の箱船で
乗っているのは髭のないノア
ショートカットの妻
少々スポイルされた子どもたち
つがいの動物はいなくて
オスのハムスター一匹のみ
ブンブンうなる冷蔵庫に食べ物を貯えて
子どもの足音を注意する階下の住人に気をつかい
金属製のドアをしきりにあけたてしながら
白い壁に囲まれながら暮らしている

と書かれ、そして、この箱船はマンションの他の家と同様に夜中になるとバラバラにほどけて洪水の中を漂っているというのだ。夜の闇の中に無数の家族を乗せた箱船が漂っているというイメージは、今の世の中の寄る辺のない家族という存在を的確に言い当てているように思える。彼女の詩の対象は「言葉」ではなく自分が生きている現実だ。その自分の現実を何のとか肯定して行こうと書き留める。その箱船の「髭のないノア」に喩えられた夫である詩人は、自分の言葉に自由を与えようと、言葉の上で今の世の中の「少年」と「老人」に身をやつして、思いを語る。


            渡辺 洋
            

敵は自分の中にいるという話は聞きあきた
誰もが精一杯生きているのだからという言い訳も

気をつけろよ
自分の感情が呼び出されたと思って振り返っても
そこにいるのは自分じゃなくてお金なのさ


  ○
  
  
人を殺そうが犯そうが
最後には誰も悪くなかったで終わる
この国の物語はいつも敵の姿を見えなくしてしまう
引きこもりの作家や詩人たちがおたがいの作品を採点して
毎年ものすごい収穫があったかのようににぎわう
ぼくのような学校に行かない十代は
愛情のない親を殺して最後には自殺するなんて
物語を読んで涙する人も
街ではぼくの姿など目にとまらないふり
そしてそんな物語さえ書けなくなった叔父は
女の人とホテルに逃げ込んで酒びたりらしい
ぼくが何かを売りに行くあの街だろうか

詩人が「少年」や「老人」に身をやつして言葉を繰り出すのは、自分の言葉で語るのでは自己という存在の言い訳に終って、他人に届かなくなってしまうのを避けようとしたからだと思う。多くの詩が「自分のこと」に終始している。現実も言葉も共有できなくなっている。彼は他者を持たない人々の集団の中で苛立っている。他者が存在しないから、言葉がまっとうな働きをしない。そこで、自ら他者を演じる形で、作者自身が二分して言葉のやりとりを実現して、そこに現実というものを浮上させようというわけでしょう。一方では楽しく、また一方では苦しい所行のように思える。その所行が、現実を遠望するような生活意識になっているわたしの胸に応えてくるところがある。わたしは実際、現実についていろいろと話したいなあ、と思いながら、話せる相手もいなくて、話せないでいる。渡辺洋さんはそこのところを詩で乗り越えようとしているいるんだなあ、と思う。洋さんは父親だ。息子はまだ小学生だけど、もうすぐ中学生になる。その存在感が、詩を書く父親に「少年」という主体を生み出させたように思える。そこは詩の上で辿れるところではないが、でも何か面白い。母親で詩人、父親で詩人、妻で詩人、夫で詩人、そこに共有する「詩の言葉のパラダイム」が生まれてくる。その詩人を内包した家族というもののイメージが新鮮に感じられる。

祝福
             小林泰子
             
             
こどもと手をつないで
夕方の光をかきわけて歩く
飛行機ぐもが
空のはしからはしまで
虹のようにかかっていて
白いアーチの真下にいるわたしたちは
祝福された瞬間をくぐりぬけた

つまさきを不安の水にひたしながらも
街の吐き出すすすけた息を吸う鼻孔のあたりに
かすかに甘いにおいがただよっている
みどりいろに陰った川を
汚泥を運ぶ船が
ゆっくりすすんでいった

船を指さして笑うこども
──いっちゃった
──いっちゃったね
──どこにいくの?
──さあ、しらない

風に散らばりはじめた飛行機ぐもが
春のかすんだ空に溶けこもうとしている
足跡ものこさずにうつろうわたしたちの
影のようなものだけが
地に落ちてゆらめいている

一刻(さっきの船は)
一刻(こどもの笑い声を)
風はどこに運んでいくのだろう
(あとかたもない祝福のアーチ)
空に吸いこまれたように消えた時間は
宇宙の胃袋で
いま、消化されているのだろうか

──ぼくはどこにいくの?
──さあ、しらない

とろりとよどんだ空気の流れを
こどもが溺れないように手をひいて
わたしは時のさざなみをかきわけながら
歩いている







 
 








1996年9月23日
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