2002年12月1日から31日まで


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2002年12月31日

 年の瀬、久し振りにPhotoshopでGIFアニメを作って遊ぶ。


NEWアニメ画像

 一昨日、29日に年賀状を印刷して投函して、ぽっかり時間が空いたという感じになった。実は、わたしの家の玄関口の階段に開封されてない郵便物がうずたかく積まれていて、お正月までには何とか片づけたいと思っていた。そればかりでなく、書斎としている小部屋も本やら何やらで身動きもできない。身をすり抜けさせても、積み上げた本がバラバラと落ちる。それも何とかしないと、PowerBookG4を買うこともできない。片づけるのは気が重い。で、時間がぽっかりと空いたという感じになった。しかし、この感じには年の瀬を迎えた67歳のわたしの微妙な気分が反映している。それを語る前に、そのぽっかりと空いた時間に久し振りにPhotoshopで、GIFアニメを作って遊んだ気分のいきさつ。やらなきゃならないことがあると、遊びたくなって遊んでしまうッてことあるでしょう。それですね。

 ここ数日間、多摩美の映像演劇学科の来年から新しくなるカリキュラムの表をHPにしようとやっていた。Excelの表をWEBページで保存すればそのまま表の形で表示されるが、XML形式のファイルになるために、51科目の表が1行45文字で2826行のHTMLファイルになってしまうし、1回のロードでは字が重なったり、罫線が出なかったり、またMacintoshで見るとエクスプローラーでもネットスケープでも罫線が表示されなかったりする。それで、自分で書くことにして、CSSを使って罫線を表示させるやり方で、WindowsでもMacでも何とか表示できる表ができた。行数は何と七分の一の400行に減らせた。実は、この新カリキュラムを作り上げるのには、2年間で数十回の会議を開かなければならなかった。入学してきた学生に、演劇でも映像でも自分の表現活動として存分にやってもらう、という趣旨をカリキュラム上で実現するのに、それだけの話し合いが必要だった。「表現」という科目で、一週に4コマ取ったところがみそだ。来年の4月からの実施される。学生諸君が面白い作品、面白い舞台を作ってくれることを願う。

 というわけで、カリキュラムのHTMLファイルの表組みに挑戦していたので、多摩美の他の学科のHPはどういうものか見てみようと一つ一つ見て歩いた。今まで同じ大学の他の学科のHPはあまり見たことがなかったので、結構面白かった。他の美大のホームページはおおむね冊子で刊行された「入学案内」のWeb版といったところだが、多摩美のHPには「日本語(SiteMap)」というボタンがあって、これをクリックすると各研究室のHPに飛べる。ここが各研究室が勝手に作っていて、ばらつきがあって面白かった。最近ではフラッシュを使ってかっこうよく作っている。わたしのところの「映像演劇学科」は3年前ぐらいに作ったままなので、トップページは見栄えがないが、複雑な構造になっていて、学生たちの顔が見えるところがあるという点でまあまあといえるかと思った。わたしがHPを開設したばかりの1996年頃は、大学でHPを持っているところは少なく、アメリカの大学のHPを見て歩いたが、中に大学のキャンパスの航空写真があって、その学生寮の写真をクリックしたら、部屋の配置図になっていて、部屋をクリックするとその部屋に住んでいる学生のHPになり、好きなロックミュージシャンのことが書いてあったのに出会った嬉しくなったことがあった。日本でも東北大のHPの学生のページに彼が作った手でお尻を叩くとどんどん赤くなるというプログラムがあって、笑ってしまったことがあった。今の大学のHPでは大学当局の管理が行き届いたせいか、殆ど学生の顔が見えない。わたしとしてはせめてもと思って、学生が作ったつたないHPも公開している。
 というわけで、昨日は大学Web巡りをして、それからPhotpshopで遊びNEWが飛び出すGIFアニメを作ったというわけ。

 さて、今日は階段の郵便物の整理をした。詩集が30冊ぐらい溜まっていた。一冊一冊封を切って、一冊全部を読むわけに行かないので、偶然開いたページの詩を一つ読む。しかし、興味が続かず一編の詩を読み通すことができないのもあった。みんな詩を書いているんだなあ、と思った。その詩というところが、正直言って、どうも今のわたしにはぴんと来ない。封を切っては一つ読むという仕方で読んでいくと、それらまるで違う一つ一つの詩が声を揃えているように思えてきた。大学のHPを見ていて、どの大学のページも綺麗にレイアウトされていて同じように見える。大学って教員と学生がいるところなのに、その顔が見えない。詩集を読んでも、顔が見えてこない。確かに言葉と書いた人の名前はあるが、そこに人がいるように感じられない、ということ。わたしが片づける気分で読んでいるからかもしれないが、でもその気分を吹っ飛ばすようなものはなかった。言葉が詩に収っている。わたしも詩を書こうとすると、言葉が詩に収ってしまう。どうしようもないから、それで書くことは書いてしまうけど。この時代の表現の言葉の習慣性というか、共通認識というか、詩ってそういうものっていうやつなんですね。この印象を得て、まあ、詩の課題がちょとはっきりして来たと言えるかな。

 その封を切ってない詩の同人誌「フットスタンプ」第8号に、昨年出したわたしの詩集『胡桃ポインタ』についての白鳥信也さんと池田俊晴さんと遠藤誠さんの鼎談が載っていた。も一つ、「千年紀文学」(2002年7月31日39号)というパンフレットに、森川雅美さんが書評を書いてくれていた。「フットスタンプ」の鼎談ではプログラミング言語のJavaの書法を借りて書いた詩やチューリングのことを書いた詩が取り上げられていた。共通して「窓辺の構造体」の「構造体」という言葉を取り上げていた。全うに読んでくれる人がいる、と感じて嬉しかった。詩集『胡桃ポインタ』は高見順賞を受賞したけど、実際読者からどういう風に受け止められているのか余りよく掴めなかった。でもこういうような取り上げ方がなされていると分ると元気が出てくる。  

池田 でも、鈴木さんなんか、もっと年をとる
ともっとすごくなっていくんだろうな。..
白鳥 陳腐な読み方では、老いとか死とかをテーマに書いて
いるとか言うんだろうけど。
池田 そういうしろものじゃないと思うよ。
白鳥 そう思います。そういう定型的な読み方に回収されな
い。鈴木さんは円熟というのとは違う方向で、もっと深くな
つていくんでしょう。またそうじゃなきゃ、鈴木さんじゃな
い気がしますね。これまでだって、ずっとひとつのスタイル
にとどまらずに、読者を常に解き放ってきたと思うんです。
池田 もっともっとすごいところに入っていくということが、
感じられるような。
特に、こういう箇所に出会うと嬉しい、と同時にその期待に応えなければという思いも湧いてくる。締めくくりの年末にこれが読めたのはよかった。白鳥さん、池田さん、遠藤さん、森川さん、ありがとう。

 今年の締めくくりとして、一年を振り返ってみると、今年はマークの付いた年と言えるだろう。それは、先ず、年賀状のお年玉の一等賞に当たったこと。今までになかった。そして何よりも、一月に高見順賞の受賞の知らせがあって三月に授賞式があった。知らせは大岡信さんからの電話、そして授賞式で賞状を忘れてきて一騒ぎとなったこと。イメージフォーラムフェスティバルに海老塚耕一さんを撮った『山北作業所』を出した。今日、もう来年のフェスティバルのエントリー用紙が来た。六月はW杯サッカー、人並み以下だけどテレビ中継は見た。七月八月は多摩美の共同研究の「カラザ02」の練習と九月の公演。連日の猛暑にスタッフキャストのためにアイスクリームを買って行った。十月は『映画の音楽』が読めないうちに、あっという間に過ぎて、十一月には「海老塚耕一展」の作品の搬入をビデオに撮って開場している間上映した。十一月から十二月に掛けて「妻有アートフェスティバル・短編映画祭」の応募作品二百本を見た。それから「若林奮展」を豊田市まで見に行った。初等数学の本を何冊か読んだ。今更初等数学なんて恥ずかしく、これは余り人に言いたくないけど、何となく自慢したい気持ちもある。今、「2個の整数a,bはa-bがmの倍数となるとき、mを法として合同であるといい、a≡b(mod m)と表す」というところにひっかかっている。子どもの時からの憧れのエヴァリスト・ガロワのやったことを死ぬ前に理解したい思いなのだ。
 十二月三十一日になった。皆さんよいお年をお迎え下さい。来年も再来年も戦争が起こらない年になって欲しい。来年、松井はどうなるか。

 
 「ホームシアターNEWS」に「詩人・映像作家 鈴木志郎康氏インタビュー」が掲載されてます。



2002年12月25日

 あじさいの新芽。


あじさいの新芽
 もう出てきたあじさいの新芽

 枯れた庭でも撮るかな、と思って外に出て、あじさいの枯れた花を見ていたら、芽が目に入った。あじさいの新芽だ。あじさいの芽ばかりでなく、東京では12月に木の芽が出ることは知っていたが、やはり驚いた。ここ数日、テレビや新聞の回顧番組につられて、自分のことを振り返ることばかりしていたところから、新芽を見て来年へとつながる気分が出てきた。新芽を見て来年に思いを馳せる、単純ですね。来年といっても、先ずは約束したことを一つ一つやって行く、ということに帰結するわけです。でも、それだけでなく、そういうこととは別に、やりたいとか、買いたいとか、欲求というものが心の中に生まれてくる。別に年の瀬とか新年とか関係ないけど、この時期になると、自分の現在と将来を思い考えることになるというわけですね。

 今年は詩を余り書かなかったから、もっと詩を書きたいと思う。この秋、多摩美の「生涯学習」の講座で久し振りに詩についての話をした。以前、早稲田や近大で講義したノートを元に話し始めたが、違う話し方になった。大筋では、詩を書くときの言葉の役割みたいなことと、詩を書く人は自分を詩人として支えるためにその言葉を求めていくというようなことを話したのだったが、「詩人として支える」という場について、それは現実的な側面と抽象的な側面とがあるが、それが上手く話せなかった。わたしは「鈴木志郎康」という名で詩人として世の中にある程度通っていると思っているけど、若干、もう詩人でなくなっているなあ、という思いもあり、また自分を詩人とすると「場違いな詩人」という感じになるところもある。微妙だな、うーん、なのだ。ここは保留しておいて、考えたいところだ。詩を書こうとする気持ちが変わってきているということ。

 先週、多摩美の映像演劇学科の今年の卒業制作作品の提出があり、その内のテープやフィルムで提出される映像作品をチェックするための試写をした。その中の小玉哲也君と仁平有香さんが作った『キョウハオレ』という作品が心に残った。パンクロックミュージシャンを扱ったドキュメンタリー作品だったが、小玉君自身がパンクロックミュージシャンで、パンクロックって何だ、自分がパンクロックをやり続けられるのか、と問う作品になっている。パンクロックの演奏シーンもロックミュージシャンへのインタビューも出てくるが、それより、小玉君が実際に東京の三軒茶屋でキツツキを見たということに拘って、同じように見たという人の証言を求めてその辺りの家々を訪ね歩き、道行く人に問いかけるなどして、その果てに北海道まで行って実際にキツツキを撮影してくるという流れと、もう一つの流れとして、人気のあるパンクミュージシャンが最近姿を見せなくなったので、彼の消息を知ろうと訪ねてもなかなか会えないが、最後に会えるという筋を作っているところが面白かった。三軒茶屋の高速道路脇の空き地にキツツキがいたなんていいじゃないですか、と彼は言う。その言葉が、キツツキの絵を背中に描き、鋲が打ち込まれ革ジャンを着て住宅街をうろつくが、見たという人には結局出会えないで、夕方、疲れて道路脇の石に腰を落とす彼自身の姿と重なる。パンクロックミュージシャンが都会のキツツキと重ねられるわけ。誰も見たとは言わないが、俺は見たんだ、ということ。そして、最後にようやく会えた人気ミュージシャンは、楽器ではなく、やさしく自分の赤ちゃんを抱いてあやす子持ちのプログラマーに変身していた。彼は、パンクをやり続けるためにサラリーマンではなく、フリーのプログラマーになるという。自分で自分の道を開いていこうとしているわけだ。自分で自分の道を見つけていく、その姿を見せる、これが今の時代の合い言葉なのかもしれませんね。

 あと一週間でお正月だ。年賀状を作って、部屋を片づけて掃除をしなくてはならない。さっきちょっと本の重なりの下の方をみたら、一年前の雑誌だった。



2002年12月16日

 「若林奮展」を豊田市まで見に行った。


カタログ
 「若林奮展」カタログ
カタログ写真:所有・雰囲気・振動ー草の侵略及び持ち物についてT〜X
 カタログの写真:「所有・雰囲気・振動
  ー草の侵略及び持ち物についてT〜X」
カタログの写真:樹皮と空き地ー桐の木
 カタログの写真:「樹皮と空き地ー桐の木」

 先週の金曜日、12月14日はぽっかりと一日空いたので、愛知県の豊田市美術館でこの23日まで開催されている「若林奮展」を見に行ってきた。今年の2月に、若林奮さんと前田英樹さんの共著『彫刻空間』を読んでいたので、是非とも行ってみたいと思っていた。お昼前に家を出て、豊田市美術館に着いたのは夕方の4時前になっていた。閉館の5時半までで一通り見ることができた。それにしても、美術館のホームページの地図は簡略過ぎていて、迷い歩いて時間を取られてしまったの残念だった。地図では、豊田市駅から直ぐのような感じなのだが、迷い歩いて20分余り掛かった。往復の電車賃がグリーンを使って3万円、掛かった時間は9時間近く、それでも見た甲斐はあった。若林さんの作品はこれまでにかなり見ているが、見てなかったものも見ることができ、わたしにとって曖昧だったところにも入り込めたような気にもなれ、彫刻というものを考える機会も得たように思えて、行ってよかった。

 この「若林奮展」には1964年頃から現在に至る主立った作品が年代順に展示されていた。わたしが若林さんの作品を見るようになったのは1976、7年の頃からなので、それ以前の作品が見られたというのが、若林さんの作品を考える上で、言い方として可笑しいが収穫だった。「大風景」と題した犬の前身がついた彫刻は前から知っていたが、潜水艦を連想させる「日の出・日没」の連作などは初めて見るものだったのでとても面白かった。船体の殆どを海中に隠した潜水艦の、潜望鏡のある塔の部分だけ見せている姿が、また鰭だけ水面に出して泳いでいるイルカの姿が、初期の頃の若林さんの関心を引いていたのが分った。わたしには、銅板を重ねてその中を見せない「粒の雨滴」辺りの作品が、若林さんの作品との出会いだったが、その内部を見せないというところに引きつけられたのだった。その後の「振動尺」シリーズは長い円筒や長方形の立体の切断面からその物体の内部を予感させるものとなり、題名からして生命が濃密にコンデンスされた物体と感じさせられるというところに魅力を感じていた。その見えない物体の内部というが、潜水艦の場合は物体そのものが海の中に潜っていて見えないわけで、見えないけれども存在するという、その構造が若林さんの作品の根幹になっているということ、そしてその道筋を現在に至るまで一歩一歩歩いているということを、今回改めて感じたのだった。ものの存在、その内部、そしてその内部が呼応する外側の世界、そういう世界構造を若林奮という人は正面から真っ正直にやっているんだと思った。

 植物は種から芽を出して成長して行く。「所有・雰囲気・振動ー草の侵略及び持ち物についてT〜X」と題されたシリーズの作品は、その植物の潜在する力を受け止めて鉄で表現したものと考えられるが、このシリーズに最初に触れたのは確か、若林さんが武蔵美の先生をしているときで、研究室のアトリエを大きな鋼鉄の箱にしてしまっているの見て驚いたのだった。そのとき、若林さんは窓から見ていると、外の地面に草が生えてくるのを内面的に感じて、それに応じるように鉄の箱の中に鉄のオブジェを増殖させて行っている、というような話していたと記憶している。その後、ギャラリーに展示されたのを見た。ギャラリーで見たときは、銅板の重なりや振動尺の物質性の連なりとして受け止めて、植物の方よりは鉄の方を感じていたが、今回、作品の時間的な流れの中に置かれたものとしてみると、鉄よりは植物をより一層感じたのだった。そういう感じ方になったのは、彫刻と一緒に展示されていたドローイングに、人や植物の姿が比較的に具体的に描かれているものが多かったので、鉄の彫刻作品とその発想の元になった植物と作者との関係を見るようになってしまったからだと思う。実際、会場を歩いていて、ドローイングと彫刻と間を行き来しているうちに、そこに膨大な物語が堆積しているように思えて来たのだった。自然のものや現象から、作品となった事物へ意識が辿る物語というわけだ。2002年の作品として展示されていた「樹皮と空き地ー桐の木」はその物語性ということをもっともよく示していると思える。この作品は一本の桐の木の樹皮が、木の部分をくりぬかれて、床の上に元の地面から生えているときの木の姿の形で並べられている。梢の方角から展示室に入って、根本の辺りに来ると、植物が生える力を鋼鉄の形にしたと思える「所有・雰囲気・振動ー草の侵略及び持ち物について」とはまた違った感動を覚えさせられた。鉄から植物へという方向に物語は流れないが、このくりぬかれた樹皮から地面に生えていた元の桐に木の方向へと物語は流れる。別室に、桐の木が事物に変わっていくドローイングが展示されていたから、一層その変貌を辿るということになったのかもしれない。物語はその桐の木にまつわるものではなく、その桐の木を相手にしたという表現の道筋を辿って、美術館の床に置かれている樹皮との間を往還する。それはかつて直立して生きていたものが、今は事物として床に横たわっているということによって、生命の所在を感じさせる物語だ。そして、その直ぐ脇には「花模様」という銅板を重ねた大きな作品が二つ展示されていた。大きな銅板には丸い押した痕が模様のようについていて、小さな銅板は腐食の痕がついている。わたしには、この二つの「花模様」という作品によって、美術館の一部屋で桐の木の再生の祝祭が執り行われているように感じられたのだった。

 今回の展覧会を見て、若林奮さんの作品に事物を内面化していく物語の筋道を見つけたということになった。その筋道がすっかり辿れたというわけではないが、今までよく見えなかったところがこれで少しは見えてきたということになるだろうか。彫刻というものが作者の手作業を被った事物であることは確かだ。その手作業が与える意味合いをどう受け止めるかというところに彫刻を見る楽しさがある。その意味合いは作品を見るたびに変わって行く。発見があれば嬉しい。「物語の堆積」、という言葉を抱えて、帰りの新幹線の中では疲れて眠ってしまった。で、若林さんの作品が「物語」の筋道で受け止められれば、先月、神奈川県民ホールギャラリーで見た海老塚耕一さんの作品は何らかの「装置」という受け止め方ができるのではないかとも思ったのだった。




先月、読後感想を書いた『映画の音楽』の「図書新聞」12月7日号掲載の「書評」を、発行日から一週間経ったので、了承を得てここに掲載します。

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視覚聴覚の統合体として映画を語る


 ミシェル・シオン著、小沼純一・北林真澄監訳、伊藤制子・二本木かおり訳
 『映画の音楽』(みすず書房刊)評
                  鈴木志郎康

 読んでいくうちにぐいぐいと圧倒される本だった。映画というものが音楽の 側から記述されて行き、わたしが知っている映画とは全く「別の映画」というものが 姿を現してくる、というところで圧倒される。今まで自分が見ていた映画は視覚で捉 えたものしか過ぎず、聴覚の側から捉えると映画は全く別の姿をしているということ が、読み進めていくうちにわかってくる。映画を見ているつもりだったが、映画を聴 くということがなかった、そういう思いにさせられるのだった。
 ミシェル・シオン著、小沼純一・北林真澄監訳、伊藤制子・二本木かおり訳『映画の音 楽』(みすず書房刊)は、三部構成になっている大著だ。先ず第一部では、映画と音 楽の関係の歴史が、サイレント映画の伴奏音楽から現在のドルビーシステムによるマ ルチチャンネルまで語られている。わたしにとって、サイレント映画の伴奏音楽とい えば、バイオリンを弾いて、弁士が語るというものしか頭に浮かんでこない。二〇年 ぐらい前にアベル・ガンスの『ナポレオン』がオーケストラの伴奏で上映されたこと があるが、それは特別の見せ物としか受け止めなかった。ところが、この本を読む と、西洋ではサイレント映画が上映される時、オーケストラが演奏されていたという。 そこで伴奏される音楽にはポピュラー音楽もあればクラシック音楽もあり、有名なク ラシック音楽が編曲されることもしばしばあり、オリジナルに作曲されることもあっ たという。そして、「多くの場合、無声映画は、リズム、形式、台詞の用い方などに 置いて叙情的なオペラのスタイルをすぐに取り入れた」というのである。映画がオペ ラに重なって行くというのが、西欧では自然の成り行きだったというわけ。このこと は、音楽に余り詳しくないわたしには驚き以上のものだった。そこから、映画は視覚 に訴える映像で成り立っているが、実は映画の本質は音楽なのだという道筋へと引き込 まれて行くことになったのだった。
 ミシェル・シオンの語り口は、極めて説得力がある。とにかく、引用する映画の展 開をその音楽の展開として語り切ってしまう。ヒチコックの『北北西に進路を取れ』 の一場面では、「突然、死の危険にさらされたケーリー・グラントを見てみよう。俳 優は──第一にそれはヒチコックが要求したことなのだが──冒険の間、常に、どんな 状況におかれても冷淡かつ辛辣で、冷笑的で内向的である。彼の胸の高鳴りは、ただ 一つの音楽によって仄めかされる。それは激しく揺れ動く、取りつかれたような、弦 楽器の半音階的な三連符の音型で、短調の一オクターヴのなかで曲がりくねって進 む」というように語られる。音楽が心臓の鼓動だというわけ。音楽は、映像や役者が 映画の要素であるように、映画に欠かせない要素であって、「象徴的な領域、創造的 な領域、組織的な領域を代表するもの──それは映画の他の部分に働きかけ、それを 組織し、導くことができる──となりうる」というのである。音楽がなければ、映像 に血液は流れない。生きたものにならない。よしんば、音楽がない映像でも、それが 「沈黙」としての音楽を感じさせなければ映像は生きてこないという。
 第二部では、その音楽が聴覚に訴える言葉や騒音と相まって、非言語の言葉として映画に普遍 性を与える働きをするところが、詳細に語られる。ベルイマンの『鏡の中にある如く』 の展開を例に、映像が現実に即したところでの枠組みの限界を超えられないのに対し て、音楽は「空間に関してもどんな限界も持っていない」ので、「時間と空間のあち こちを駈け抜け」、他の要素と「共に循環(灌漑)し、共に構造化する」働きをする というのである。これがミシェル・シオンの映画の音楽の基本的な考え方といえよ う。わたしは、ここに「灌漑」という言葉が出てきたのにはびっくりした。確かに同 じ顔のアップでも、音楽がつくとつかないでは印象は全く違うし、音楽によって情緒 が生まれ、その印象はどのようにも変えられる。映像の中に音源を持つ音楽、またサ ウンドトラックにつけられた、つまりオーケストラ・ピットで演奏される音楽、まさ にそれらの音楽が映像を潤すわけだ。
 ミシェル・シオンはその観点から、特に音楽が生かされている作品について、その 生かされ方を詳しく語って行く。その作品の数は膨大なものだ。それがこの本の第三 部で、映画監督や音楽家別に作品の中での音楽の使い方が詳しく論じられるている。 特にキューブリックやデイヴィッド・リンチの作品は彼らの音楽の使い方によって作 品自体が「音楽的だ、といえるもの」になっているという。更に、ベルイマンやレネの 映画は作品が楽章的な構造を持っていることを分析して語り、映画が音楽そのものに なっているという。シオンという人は、映画は視覚芸術だが、その本質は音楽にある ということを筋道を通して積極的に語って行くので、読めば読むほど、わたしの頭に はその語られている映画の音楽がそれほど残っていないので、つくずく自分がこれ まで「映画を聴いてなかったなあ」という思いにさせられるのだった。読み応えのあ る本だった。

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2002年12月9日

 初冬の薔薇に雪。


初冬の薔薇
 初冬の薔薇
雪を被った薔薇
 雪を被った薔薇

 初冬の薔薇は寂しい感じがする。そこに、今年も後わずかで終るっんだなあ、という気持ちも加わる。現在の表現ということについて、考えを纏めたいと思っているが、纏められないでいる。先月の17日に新国立劇場で見た太田省吾作・演出の「ヤジルシ──誘われて」と先月神奈川県民ホールギャラリーで開かれていた海老塚耕一さんの展覧会について。共感するところがあるが、ちょっとずれるところもある。太田さんの芝居は、いま現在生きて生活している人の意識の持ち方を形象化したものと受け止めた。というのは、舞台は、夢の島のような廃棄物が堆積した場所で、そこで一組の夫婦を軸に過去を持った人間たちが抽象的に出会い行き交い、再生するという展開だった。幕開けに、堆積したゴミの中からこの世のものではない姿の人物たちが現れて、新聞を読んで消えていく。また劇の場面の変り目で、捨てられた2台のモニターに「盗用テキスト」として内外の沢山の作家の名前や書名が流される。問題意識の総括的な表現とでもいったらいいのか。太田さんは大胆に果敢にやって見せてくれたという印象だった。海老塚さんの方は、一つの美術館のワンフロアーに匹敵するほどの7室を全部今年の新作で埋め尽くす作品展示で、巨大な鉄の作品、ずらっと並べられた木の板の作品、銅版画、映像と鉄を組み合わせた展示物と、海老塚さんの表現の現在時点がそっくり出されていたといえるものだった。この2年間、海老塚さんの作品をフォローしてきたわたしとしては、海老塚さんの現在時点での全体を見せられて、それをどう受け止めるかが問われていると感じた。太田さんの作品にも、海老塚さんの作品にも、感じとして迫られているが、考えとして纏められない。ちょっと苛立たしい思いです。

 そんな思いで、この数日、来年の「越後妻有アートトリエンナーレ2003/短編ビデオ・フェスティバル」の応募作品を見ている。日本から応募は若い人の作品が圧倒的に多く、その作品のあり方と、太田さんや海老塚さんの作品との間にはかなりの落差を否応なしに感じさせられてしまう。その落差ということも含めて、現在の表現ということについては、一概には言えないが、何かイメージとしてでも掴まえたい気がする。太田さんの芝居では夫婦が天井に「ヤジルシ」を見るとことになっているが、そのヤジルシが見えないのが現在なのではないかという気がする。昨日も、イメージフォーラムの2002年度卒業制作選抜作品の上映会の二つのプログラムを見たが、それぞれが「作品制作」というところに向かって作られていることは確かだが、その表現が向かっているのは作者自身で、わたしはついつい才能って何だろうなあ、ということを考えてしまうのだった。つまり、作品のバラエティは作者の才能のあり方に依っているのではないか、もうひとつ「つまり」をつけていえば、粘土細工が得意であれば粘土アニメをやり、人と接するのが得意であればインタビュー作品になるといったようなことで、表現はそういう人の有り様を見せるだけのものになる。でもそれでいいのかなあ、ということ。

 今朝、目を覚まして窓の外を見たら、雪になっていた。久し振りの雪で気持ちが浮き立つ。その勢いで「曲腰徒歩新聞」の記事を書いた。





2002年12月2日

 VAIOノート PCG-C1MZXを買ってしまった。


VAIO PCG-C1MZX
 VAIO PCG-C1MZX
備え付けのカメラで見る
 備え付けのカメラで見る

 ほしさから言ったらPowerBookG4の方だが、急にVAIOノートを買ってしまった。先週の木曜日に新宿のヨドバシカメラに行って、この夏に暑さのために壊れてしまった17インチのディスプレイを買った。CTRのディスプレイは殆ど売っていない。3年前に買ったときは10万円以上もしたのに、17インチで安いものだと4万、高くても6万円台になっていた。液晶だとほぼ倍以上の値段だ。液晶に比べたらCTRは安い。この安い買い物をしたという気持ちでふらふらとノートパソコンのコーナーに行った。月曜日に秋葉原を歩いた時のノートパソコンが欲しいという気持ちが残っていて、それにまた火がついた。買いたいという欲望に火がついて、それを満足させるまでの意識が辿る道筋、目がくらんで、次に日には足早にヨドバシカメラに向かっていた、といううわけ。子どもころ、お小遣いを貰って走って本屋に行ったとか、映画館に行ったとかというのと同じ気持ちだった。

 出かける前は東芝のLibrettoを買うつもりだった。ところが、麻理さんにノートパソコンを買いに行くと言ったら、彼女は「カメラがついているのほしいわ」とまるで自分のを買いに行くようなことを言った。それが耳に残った。実は、Librettoにしようと思ったのは、10万円ちょっとで買える、という計算があって、持ち歩いてそれこそメモ帳代わりしようという考えだった。そのメモ帳というところに麻理さんが言った「カメラ」ということが結びついた。そうか、カメラついていれば、メモしたことにイメージも付けられる、そしてノートを起動したとき自分の顔が撮れる、という思いつき。以前、100日間ぐらい、毎朝自分の顔をカメラでとり続けたことがあった。これがわたしには結構面白かった。一日として同じ顔はなかった。ノートに自分の顔を記録する、ちょっとスリリングだ、などと思いながらヨドバシカメラに行った。

 カメラがついたノートパソコンはVAIOノートのPCG-C1MZXが売っていた。触ってみると、DVの取り込みと編集もできる、テレビの予約もできる、DVDの書き込みドライブを買えば、DVテープから一気に書き込みができる。いろいろとできるのはいいが、値段が考えていたより10万円も高い、そこでちょと躊躇して、近くの喫茶店に行った。店員が言っていた値段は、正札から15%のポイントバックを計算に入れて、2万円余り値引きになっているように思えた。現金で買わないとポイントが低くなる。そこで、財布の中身を見て、持ってきた一万円札を数えた。24枚あって、これで買えなければ止めようと思って、ヨドバシカメラの売り場に戻った。丁度ぎりぎりで買えて、ポイントバックの分で「Office XP」のアカデミックパックを買って帰った。このノートにはCD-ROMドライブがついてないから、翌日DVDの書き込みドライブを買ってインストールした。DVDテープからDVDへの書き込みも一応はできたが、長い書き込みがうまく行かないで、もう一度やってみようと思っているところ。







 
 








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