2002年1月1日から31日まで


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2002年1月28日

 お年玉はがきの一等に当たった。


賞品が入っていた箱
 年賀はがき一等の景品が送られてきた箱

 初めてお年玉はがきの一等賞に当たった、で、「当たってしまいましたよ」という感じ。お年玉はがきが始まって何年になるか忘れたが、これまで切手以外にあったことはなかった。それが、今年は11日の「高見順賞」受賞発表に引き続き、17日に郵便局で切手を買ったついでに貰ってきた年賀はがき当選番号表を見たら一等に当たっていた。当たり年だよ、自動車に気を付けなくちゃ、ってところ。当たってもどうせ切手ぐらい、と思っていたから、息子の野々歩に「見て」、と番号表を渡した。さ、さ、さあっと手際よく見ていた彼が「一等に当たっているよ」とさりげなくいうから、冗談と思って「うそっ、本当?」と聞き返したら「本当」という。当選はがきを手にもう一度見ると確かに番号が合っている。当たったのだ。麻理さんが帰ってきて、何を貰うか話し合い、「デジタルカメラとプリンタのセット」を貰うことにして、当たったはがきを郵便局に持て行き、郵便局の判を貰い、賞品が届いたという電話を待った。一週間して電話があり、また彼女が自転車で取りにいった。結構大きな箱に入っていた。郵便局なのだから送ってくれればいいのにと思ったが、印鑑がいるということだった。一年生の授業で学生に助手がそのことを紹介したら、拍手と喚声が上がりどよめいた。その喚声に、やはり、年賀はがきの一等は大したことだと思った。




2002年1月21日

 turbolinux 7をインストールした。


turbolinux
 turbolinuxのデスクトップ

暴走画面
 シャットダウン後の暴走画面

 turbolinuxというのは、Linuxのいろいろある配布ヴァージョンの一つで、日本語のデスクトップがついていて、その市販の「OfficePack」にはJavaのワープロセットの「JustArks」もついているというので、買って来てインストールした。箱には「Linux史上最高の日本語オフィス環境を実現する」と書いてあったが、わたしとしては全くの遊びのつもり。Linuxは4年ほど前にFreeBDSをやったりしていろいろなOSを試みているとき挑戦したが、その後飽きてしまって、そのままになっている。マシンをディスプレイに繋いで電源を入れれば健在と思うが、この際、WindowsXPをインストールしたマシンに空いているパーティションが出来たので、そこに最近のLinuxをインストールしてみようと思ったのだった。UNIXを動かしてみたいという気持ちが何処かにある。コンピュータの使い手としては、UNIXを使いこなせなくてはなあ、という気持ちだ。その気持ちがまた動いたということ。

 今回先ず問題となったのは、Linuxをどうやって起動させるかということ。インストールしようと思ったPentium ProからCeleron 466MHzにアップグレードしたマシンには、既にWindowsNTとWindowsXPの二つのOSがある。そこへLinuxをインストールして、三つのOSを入れたマシンにするということで、それぞれから選んで別々に起動させるにはどうするかということ。今まで別のマシンでは、「SystemCommander」というソフトを使っていたが、先日試したらそれがNTが認知されず、うまく使えなかった。となると、ハードディスクにLinuxのLILOというブートローダーをインストールするの危険ではないか、つまりWindowsが起動できなくなるかも知れない。迷った末に、Windowsのパーティションをそのまま使うループバックインストールという仕方でインストールして、Linuxはフロッピーディスクで起動するという無難な仕方を選んだ。

 このマシンにはハードディスクが三つついている。最初インストールするパーティションとして、その二番目のIDEドライブの1.95GBのパーティションを選んだが、途中で容量が足らないとはねられてしまった。次に2.15GBのパーティションを選んだが、これも足らないという。そこで、その二つのパーティションを合わせて、改めて4.1GBのFAT32でフォーマットしたパーティションを作り、そこにインストールすることにした。パーティションを作るなんてことやったから結構時間が掛かって、3時間ほど掛かったが、オートマティックに簡単にインストールできた。以前、ドライバなど、使ってあるチップを調べて、一つ一つ設定しながらインストールしたのとは大変な違いだ。rootでログインして「# startx」とコマンドを打ち込むと、デスクトップの「KDE」が立ち上がった。Windowsのデスクトップによく似ている。しかし似ているにのはアイコンの配置だけで、中身は全く違う。一応、インストールが成功したので、エディタを開いて、インストールした日にちを書いたファイルを作り、「KDE」から抜け出て、Linuxの戻り「shutdown -h now」のコマンドで終了した。しかし、systemが停止した後、メモリアドレスのような数字が画面一杯に現れて流れていくのだった。わたしは、何かのプロセスを終了しているものと思って、電源を切らずにそのままにして出かけてしまった。ところが、夜になって帰ってきても画面の数字の流れは止まっていなかった。これは暴走していると判断してその日は電源を切った。

 翌日、Linuxを起動して「KDE」のデスクトップを起動し、ハードやソフトのいろいろな設定を調べた。「ホーム」というアイコンがあって、そこがホームディレクトリになる。ファイルを作るとそのホームディレクトリに保存される。スクリーンキャプチャのアイコンがあったから、スクリーンを撮って、この「曲腰徒歩新聞」に使おうとしたが、何故かその「png」ファイルがWindowsでもMacでも開けなかった。ネットワークも接続されてなかったので、接続の設定をしようとしたが、設定の仕方を忘れていてうまく出来ない。画面の設定も変えようとしたが、これもうまく行かなかった。それで、一応終了しようと、コマンドラインを開き、「KDE」上で「shutdown -h now」を実行した。やはり、systemが終了した後、数字に流れ、つまり暴走状態になる。仕方がないから、そのまま電源を切った。ところが、次にLinuxを起動した時、「startx」で「KDE」が起動しないで乳白色の画面となり、マウスもキーボードも受け付けないということになった。つまり、Xwindowの起動の失敗である。インストールしてから二日目でもうトラブルが起こった。Xwindowの設定やら「KDE」の設定やらいろいろやらなくてはならない。そういえば、Xwindowの設定は、「.xinitrc 」なんてファイルを作ったなあ、などと思いだしてきた。まあ、ゆっくりとやって行こう。




2002年1月13日

 『胡桃ポインタ』が第32回高見順賞を受賞した。


新聞切り抜き
 受賞を報じる「東京新聞の記事」

草多のお祝いのワイン
 息子の草多がお祝いに
買ってきてくれたワイン

 昨年の九月に書肆山田から出した詩集『胡桃ポインタ』が、阿部日奈子さんの詩集『海曜日の女たち』と一緒に第三十二回「高見順賞」を受賞した。予想もしてなかったので、吃驚して嬉しかった。一昨日、11日の午後、発行元の書肆山田の鈴木一民さんから電話が掛かってきて、候補になっていて選考がある日だからなるべく家にいるようにということだった。わたしの詩集は今までにも何度か賞の候補なったことがあるが、受賞したことはなかったので、一民さんとは冗談を飛ばし合って余り期待してなかった。DVテープのカットを表に起こす作業していて、夕方、疲れたので仮眠を取りながら、テレビで「旗本退屈男」を見ているところに女性の声の電話が掛かって来て、詩人の大岡信さんに代わり、「受賞となったが、受けてくれますか」といわれたので、「ありがとうございます。お受けします」と答えたのだった。「受賞だってよ」とメールしている麻理さんに声を掛け、装丁で一冊一冊絵を描いてくれた海老塚さんに電話して伝えた。今度呑みましょうと海老塚さん。その直ぐ後、書肆山田から電話があり、一民さんと大泉さんは大喜びだった。今回は書肆山田の2冊が受賞だ、二人にとっては喜びも一入のことだろう。麻理は息子たちに電話で知らせていた。夜、風呂から出て居間に行ったら、テーブルの上に息子の草多がお祝いに買ってきてくれたワインが置いてあった。これは思ってもみなかったので、本当に嬉しかった。受賞すると、こういうことがあるんだ、という感激だった。翌朝、新聞に小さく報じられているのを見た。「東京新聞」は一瞬写真が出てると思ったら、隣の記事の宝塚の女優さんの写真だった。

 賞というのは、34年前に「H氏賞」というのを受賞したことがある。あの時は受賞した詩集『陥穽同棲又は陥穽への逃走』の詩の内容のせいで、ジャーナリズムで騒がれ、世に出るチャンスともなって、それから忙しくなった。今回は、そういうことはないと思う。本屋の書棚で、殆ど人の目に止まることもなく置かれている詩集の一冊の、詩を書いている人以外は関心もない詩集の受賞ということだ。貰った当人と周りの人が喜ぶという、それだけのことと思う。わたしとしては、自分の励みにして、それだけに留めておきたい。詩は自分に生起したことと自分が持っている言葉の出会いだ。その出会いを用意する者に徹したい。それは、他人とは関係なく、ある意味では愉快で、楽しく面白いこと。



2002年1月7日

 正月早々、次々にパソコンのトラブル。


色なしデスクトップ
 色を失ったWindowsXPのデスクトップ

カラーデスクトップ
 起動の瞬間に現れるカラーのデスクトップ

 その時、再起動したWindowsXPのデスクトップが、一瞬にしてモノクロに変わってしまったので吃驚した。でも、よく見るとフォルダーのアイコンには色が付いている。そこにマウスを重ねて擦ると色が消え、また現れる。それをクリックしてウインドウを開くと、ウインドウの枠はモノクロだが、サイズ変換や閉じる×ボタンはマウスで擦ると色が現れる。どうなっちゃったの?と思って、コントロールパネルの画面設定を調べたが変わっていない。32ビットから16ビット変えてみると、モノクロのまま、画像が荒くなるだけ。遂に、WindowsXPが色を失った、とうわけ。

 どうしてこういうことになったか。ことの始まりは、Linuxをまた始めようと、「turbolinux 7 Office Pack」というのを買ってきて、箱の中身を見ていたら、それにバンドルされていたJavaで使う「Just Arks」というソフトが、Windowsでも仮想javaマシン上で使えるとインストールマニュアルに書いてあった。早速、試みてみようと、仮想javaマシンの「JRE(Java 2 Runtime Enviroment)」と一緒にインストールしたからだった。WindowsXPをサポートしているとは書かれていなかったが、Windows2000Professionalがサポートされているので大丈夫と思った。インストールはスムーズに行ったが、終わっても「Just Arks」のインストーラのロゴマークがデスクトップに残って消えない。でも、ワープロの「一太郎Ark」も、表作成の「CalcArk」も、プレゼンソフトの「PrezArk」もちゃんとして起動して使えた。すべてjavaで開発され、java環境で動くアプリケーションが、Windows上で使える。いいじゃない。と思ったが、ロゴマークが貼り付いたままなので、これを消そうと、再起動したというわけ。そこまでは、デスクトップはカラーの世界だった。ところが、再起動したら、WindowsXPのロゴマークから、ようこそ画面についでデスクトップに至るまではカラーだったが、一応XPが起動し終わったところで、下のメニューバーにあるスタートプログラムが起動し始めると途端に色が消えた。しかし色が消えても、後は何の支障もなく使える。

 それから、「Just Arks」をアンインストールすれば治るかと思って削除したが駄目だった。WindowsXPにはシステムの復旧というツールがあるので、インストール以前までの日付に遡って復旧を試みたがこれも駄目だった。多分、「JRE」のせいだと思うが、そのファイル名もあり場所も分からないので、今のところ削除できない。タスクを子細に調べてゆっくりとこの現象を見てみようと思う。コントラストのないカラーは見づらいが、個性的な?WindowsXPとして、まあいいか、としばらくはこのまま使って行こう。ところで、このモノクロの画面をスリーンキャプチャーしてMacで開いてみたら、何とカラー画像だった。つまり、WindowsXPの画面はモノクロに見えているが、データはカラーだけど、デスクトップ表示のところで何らかの規制を受けてモノクロで表示されているいるのだと分かった。この表示の機構が分かれば解決するわけだ。

 トラブルはもうあと二つあった。一つは、プロバイダーのcatnetと急に接続できなくなったこと。1月4日に、「曲腰徒歩新聞」の記事をアップロードしようとしたら、途中で切断して繋がらなくなった。何度やっても駄目で、ちょっと慌てた。わたしのところはISDNでルーターから接続して、家庭内LANにしている。ルーターが駄目ならと、ルーターとは別のDSUのモデムで一台のパソコンからダイヤルアップで接続を試みたらそれも繋がらない。同じモデムでniftyに接続することは出来た。では、nifty経由でcatnetのWebサーバーに入ろうと試みて、これはうまく行って、なんとか「曲腰徒歩新聞」の更新は出来た。その夜、遅くなってモデムではcatnetに接続できたが、依然ルーターでは出来なかった。ルーターが壊れたのかと、がっくりした。どういうわけか、パソコンの故障は気分的に堪える。以前、ルーターの設定で苦労したことがあるので、それがまた、という気持ちになった。マニュアルを探したが見つからない。仕方がないから、ルーターの電源を切って寝た。ところが、翌日、ルーターの電源を入れて接続を試みると難なく繋がるではないか、昨日のことって何だったのだ、と怒りが湧いてきたが、独り相撲だったということ。その後、ルーターの接続はスムーズに行っている。

 三つ目のトラブルは、このルーターの電源を切ったことに因るトラブル。わたしのところのプリンターは、LAN経由でどのパソコンからも使えるようにしたある。このプリンターがWindowsマシンから印刷できなくなった。ちょっとややこしいが、プリンターにIPアドレスを振って、MacからもWindowsからも印刷できる仕組みにしてある。ところが、インターネットへの接続をLAN経由でルーターを通してやっているために、プロバイダとの接続の関係で、IPアドレスの割り振りを「DHCP」にしてある。「DHCP」というのは、ルーターが接続されているマシンに自動的にIPアドレスを割り付けるという方法。このために、一度電源を落としたルーターが、電源を入れたとき新たにIPアドレスをプリンターなどに割り付けた。そのときプリンターに以前とは違うアドレスが割り振られたため、Windowsマシンが記憶していたプリンターのIPアドレスと違ってしまい、プリンターが見つからなくなってしまったということなんだ。この復旧には5、6時間掛かってしまった。IPアドレスが変わってしまっているところに気がつくまでにかなり掛かった。そして、それぞれのマシンのプリンタードライバのIPアドレスの書き直しをやらなければならなかった。まるで、大袈裟に言えば、鉄道事故の復旧を家の中でやってる感じだった。自分でも、こんなことは好きでなければとても出来ないと思う。パソコンがもっと普及したら、いずれこういうことを一手に引き受ける町の「パソコン屋さん」が出てくると思うが。パソコンのトラブルって一つ一つ違うから、余り参考にはならない。が、これって、人が個別的に生きてるということを鏡に照らし出すようなものですね。




2002年1月4日

 わたしの正月三が日。


新宿遠景
 わたしの家の窓から見た西新宿の高層ビル

 1月4日は仕事始めの日、でも教師稼業だと8日になる。8日には今年最初の会議が控えている。わたしの正月の三日間は、散歩とパソコンで過ごした。年賀状の返事をパソコンでプリントして出しに行く。そして散歩。帰って来て、パソコンの前に座って、パソコンでいろいろ。散歩については語りやすいが、「パソコンでいろいろ」はなかなか語りにくい。

 散歩は4、5キロ歩く。暮れには亀戸の実家にお歳暮に行った帰り、久し振りに京成押し上げ駅を経て浅草まで歩いた。多分十年振りか。街の様子が変わっていた。途中の以前の本所辺りは町工場多かったが、ちょっと大きな町工場の後は殆ど高層マンションになっていた。そのマンションの間にまだプレスなどの家内工場が残っていて、亀戸育ちのわたしは懐かしい気持ちになるのだった。家が亀戸で、高校が両国だったし、友だちの家が吾妻橋の近くにあったから、本所の辺りはよく歩いた。錦糸町に近い方では、駄菓子を作る小さな工場、押し上げの方では、プレス工場、みんな道路に面した戸を開いたままにいているから、中で働いている人たちの姿がよく見えたものだった。今は戸が閉まっているが、そういう昔の情景を思い浮かべながらセンチメンタルな気持ちで歩いた。吾妻橋付近では、よく行った友人の家を探したが、もう分からなかった。寂しかった。浅草に出てから、これもよく行ったロック街の裏手の「ロイヤル」という喫茶店に行ってみたが、ここはなくなってなかったのでほっとした。

 昨日、3日には自宅から先ず代々木八幡に初詣して、といっても一年に一回しかお詣りはしないけど、そこから新宿まで歩いた。先日は参宮橋から代々木、千駄ヶ谷へと歩いたので、昨日は初台に出て西新宿方向に足を向けた。マンションや一戸建ての家が混じった何ということのない住宅街だ。新宿までは何度も歩いたり自転車で行ったりしているから、この辺りの道はいろいろと通っている筈なのに、初めて歩くような感じだった。それは記憶に残るような建物や街角がないということなのか。一戸建ての家でも、個人の住宅なのか事務所なのか分からないという感じ。この山手通りから甲州街道に抜ける道は、京王線の初台の駅に近くなったところで、甲州街道沿いの高層ビルの手前に一戸建ての家があるという立体化した空間になっていて、大きな舞台に出るような印象があった。そこで、甲州街道を歩道橋で渡ると「第二国立劇場」と「オペラシティ」がある。「オペラシティ」の北側は、冷たいビル風が吹き抜けて凄く寒かった。水道道路を新宿中央公園へ歩いて出るところで、ようやく自転車に乗ったお母さんや若いカップルとすれ違った。そして10月に詩の雑誌の「midnight press」の鼎談をした新宿ワシントンホテルの前を通り過ぎて西新宿の商店街に出た。どういうわけか、すれ違う人の顔を見て「こういう顔が日本人の顔なんだ」と意識した。多分、似ているが日本人ではないと感じる人とすれ違ったからか。西新宿では、ソフマップでうちの麻理さんが欲しがっていたスキャナーを買ってタクシーで持ち帰った。

 「パソコンでいろいろ」をちょっと。最近またLinuxに関心が出てきた。インターネットの常時接続ということが身近に感じられてきて、何れそうなるならWebサーバーも立ち上げてみたいという気もある。そうなれば、Linuxのサーバーだろうということ。それと、WindowsXPをインストールしたマシンを使う機会が多くなって、そのハードディスクに未使用のパーティションがあるので、そこにインストールして試してみたい気も出てきた。さらに、「Cgwin」というWindows上にLinuxをエミュレートしたのもので、Perlの勉強をしている。コマンドラインでvimというエディタを起動してスクリプトを書くと、即座にPerlが実行できる。ただ、これで日本語使うやり方が分からない。というようなことがあって、それならLinuxをインストールしてしまえばいいじゃないか、という気になってきたというわけ。散歩は健康ということもあるが、ただ歩くのを楽しむ。パソコンもただコンピュータを楽しむで行きたい、と思うが、なかなかそういう具合には行きませんね。



 
 















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