イメージフォーラム付属映像研究所の卒業式。
背丈が伸びた大根の花 |
咲き始めたとき、栄養が悪く茎が伸びないで花を咲かせたと思っていた大根が、その後ぐんぐんと茎を伸ばした。茎が伸びてから花を咲かせるのではなく、花を咲かせてから茎を伸ばしたというわけ。今年は、桜の花が咲くのも早かったが、大根の花も早く咲いて、茎の成長が間に合わなかったらしい。国会議員たちの運命もそんな風に急変を遂げたということか。
24日の日曜日と25日の月曜日に二つの卒業式に出た。日曜日には「イメージフォーラム付属映像研究所」の第25期生の卒業式。長短102本の卒業作品が3月15日から24日まで10日間に14のプログログラムで上映され、講師陣がその全部の作品を見た上で、最優秀作1本、優秀作4本を選び、最優秀作には秋山祐徳太子作のトロフィーを、優秀作4本には版画を授与するという卒業式だった。今年の最優秀作は、大門未希生君の「hierophanie」というビデオ作品。優秀作は、山内洋子さんの「エロティック・煩悩ガール」という8ミリフィルム作品、吉村雅利君の「錆色のカノン」、大久保京子さんの「バンビの足は直ぐ折れる」、濱口勝也君の「遊び」に決まった。わたしも、講師として18日から24日まで連日通い詰めて、時には午後から夜9時頃まで見るなんていうこともあって、とにかく102本全部見た。若い人たちの表現意欲と思いに晒されるという一週間だった。ここで感じる「現実感」はなかなか得られるものではない。眠気と覚醒の入り交じった時間と空間、そこに生きているという実感があった。作品が始まると耐え難い眠気に突き落とされるかと思うと、次には目パッチリでスクリーンに釘付けされるといった具合。わたしはこの映像によって引き起こされる「眠気」と「覚醒」とは一体何なんだという問題を考えていた。
大門未希生君の「hierophanie」は、廃墟の昼間と夜を撮った作品。といってもただ撮影したというのではなく、廃墟を題名が示すように「神聖な、または秘義的な場所」の意味合いで、イメージとして立ち上がらせた作品だ。昼間はコマ撮りで、廃墟を太陽の光と影が素早く移動する空間として捉え、夜は廃墟を光りが跋扈する場、またその光が住んでいるような場として、闇の中に浮かび上がらせる。さらに低音で響く波動が重なって、光りの秘義が展開するという印象だった。廃墟を撮る作品は多いけれど、廃墟の意味合いをここまで高めた作品は珍しいということで、撮影技術、編集の効果、アイデアの独創性などが買われて、講師陣全員一致で最優秀作に選ばれた。
山内洋子さんの「エロティック・煩悩ガール」は、大きなお腹に憧れる女の子の話。大きなお腹は実は妊娠したいという願望の表れだが、求める男性が見つからずに寺に修行に行き、また妊娠した友人と話している中に母親の存在に気がつき、妊娠したいという気持ちを募らせることになる。表現意欲が旺盛で、元気のよさが画面に現れていた。
吉村雅利君の「錆色のカノン」は、金属板を磨いた表面に写し出される廃墟のイメージから、そこに登場する女性に導かれるようにイメージの奥へ奥へと記憶を辿って行くうちに、女の肌に投影されるイメージが重層して展開する作品。着実な技法でイメージに語らせる世界が出来ていた。
大久保京子さんの「バンビの足は直ぐ折れる」は、縫いぐるみの小鹿を使って、女性が懐く生命の躍動と不安を語りだした作品。床に寝ころんだ女性の妄想として現れる足の細い小鹿、この小鹿が縫いぐるみで作られていてアニメーションで足が動く。女性の指の動きに合わせて小鹿の足が動き、縫いぐるみの動物が作る妄想の世界に引き込まれる。その女性がスプーン曲げが出来きたり、細いチューブで水を飲むなど、超現実的な世界が展開するのだった。
濱口勝也君の「遊び」は、女医の姉と外出できないやや神経症を病んでいる妹の、互いに影響し合った奇妙な行動を劇的に描いた作品。姉は二つのコップをテーブルに並べ、一方に注射器で薬物を入れて、ぐるぐる回してどちら分からなくして、一方のコップを呷る。そして、外出して、夜中に裸足で戻る。手は赤く染まっている。その姉の様子を見ていた妹も同じようなことをする。話はミステリアスに展開する。選ばれた高級な感じのコップや家具など、また光りに気を配った撮影が物語の雰囲気を盛り上げるのだった。
102本の作品の中には、強い印象を与えられたものが幾つかあった。先ず、佐川桂代さんの「絵空事セミモロジー」は、映画の中に登場する作者が蝉の抜け殻をもりもり食べて、見る人を驚かせる8ミリフィルム作品。別に驚かせようと食べるのではなく、蝉が好きで蝉に取り付かれている作者が、蝉に対する思いを表すために、毎年毎年壜一杯に集めた蝉の抜け殻を食べたり身体に貼り付けたり、そして木に留まって蝉のように鳴いてきたりするというだけの作品なのだ。体当たりの表現といえよう。抜け殻を食べるのが、心配になって、漢方に詳しい知人に聞いたら、蝉の抜け殻は薬なるということだった。また、渡辺賢一君の「生まれろ!」も体当たり作品だった。作者自身が泥酔して反吐だらけになっている映像が延々と続く、もう止めてくれと思っていると、一転してバイクで走る自分の顔、ヒッチハイクして、海岸にたどり着き、冬の岸壁からジャンパーを着たまま海に飛び込む。這い上がってきてまた飛び込む。元気一杯、まさに身体で勝負、というところだ。自分で自分を撮るという作品の傾向はかなり前からあるが、こういう風に自分の身体をもろにイメージとして表現しようとする作品は、この2、3年で増えてきた。自分探し、おばあちゃんもの、家族関係、そして自分の身体と作品のモチーフが変わってきた。表現の対象として、もう自分の身体しか無くなっちゃった、ということであろうか。この先どうなるの?という思いが出てくる。わたしは、彼らには何もないけど意欲だけあると思い、そしてここに「リアルだなあ」という思いが重なるのだった。
柳田章一郎君の「くるい咲き」は、自殺した父親の面影を追い、自分も自殺を試みる若い女性の姿をドラマチックに描いた作品だった。作者の話では自分の体験に基づいているということだった。父親が表現者でその表現者の後を追うということで、主人公の彼女は父親の遺書に残されていた「すみれ」という言葉からすみれの花の写真を撮影し、公園の樹木に首吊りを示唆する紐を掛けて、それを8ミリカメラで撮影し、カメラを回しながら父が自殺した部屋で同じように自殺を試みるといったように、作品の進行中、絶えず表現媒体が介在してくる。父の死の動機が追及されるというというのではなく、父と自分との関係、またその関係に拘る自分が描かれる。主人公の手に絶えずカメラがあるということは、主人公が自分を鏡に映し続けているような印象になる。父親が他者として設定されてない。いってみれば、自己愛のみが作品に上に実現されているということだ。どんな作品でも、作品にはナルシシズムが付いて廻るが、そのナルシシズムが前面に出ている。これはこの作品に限ったわけではなく、全部の作品に通じていくところでもあるように思える。イメージを個人個人が自由に手に出来るということはナルシシズムを増強するっていうことなのかもしれませんね。
さてさて、もう一つの卒業式は月曜日の「多摩美術大学造形表現学部」の平成13年度の卒業式。こちらは3年前に改組にされた「美術学部二部」の学生の最後の卒業式となった。大学は、学部学科の組織が変わり名称が変わっても、それ以前の学生が在学している限り存続するということだ。というのは、入学時に4年生を終了するまでのカリキュラムで契約するから、その学生がいる限り、その学部は無くならない、というということなんだそうだ。式は学長の告示、卒業証書授与、理事長の祝辞、卒業生の言葉など。そして校庭で卒業生と写真を撮り、夜は謝恩会に行った。わたしはパーティと式とか好きでないから余り積極的な気持ちになれない。でも、卒業式の日って、今までそれなりに週に一度か二度顔を見ていた学生とこれでもうこの子とは二度と会うこともなくなるんだなあと、本人を目の前にしてふと思ったりする。実際、これまでにほとんどの学生と卒業以来会っていない。
ところで、高見順賞の贈呈式の時の様子を、友人の金井勝さんが写真に撮って、ホームページに掲載してくれたので、興味のある方ご覧下さい。
「詩人・鈴木志郎康―第2期黄金時代突入す!」なんていうタイトルになっていて、ちょっと気恥ずかしいですが、金井さんに応援して貰えて嬉しいです。
高見順賞の贈呈式に出席。
高見順賞の賞状外観 |
賞状の内側 |
高見順賞の贈呈式が3月15日の午後6時から飯田橋駅近くのホテルエドモンドで開かれ、わたしはその受賞者として、同時受賞者の阿部日奈子さんと出席した。ねじめ正一さんの司会で、中村稔さんから賞状を授与された。わたしに対する祝辞を清水哲男さんが述べてくれた。電車の中で読める詩集ということだった。結構、わたしは電車の中で詩を考えているから、思い当たって嬉しかった。乾杯の音頭は高橋睦郎さんが取ってくれた。その挨拶で、これまで何度か候補に上がりながら受賞に至らなかったわたしの心中を代弁するような話だった。同世代の連帯というとおかしいけど、そんな感じを強く受けた。わたしは受賞者の言葉として短い詩の話をした。装丁者の海老塚さんのことを話せなかったのが残念だった。話は、詩の言葉の意味の持たせ方として、「現実」と「作品世界」の関係という二元的な捉え方ではなく、そこにそれぞれの作品の「作者」を加えて三元的に、いわば3つの変数の関係として考えて、詩人を「作者群」として考える方が、詩を書く者としては解放されるのではないか、というややこしいものなった。それから、お祝いに来てくれた人たちと歓談した。歓談に夢中になって、賞状を椅子の上に置いたままにしてしまった。8時過ぎに閉会。後で聞いたことだが、出席者は170人で昨年の倍以上だったということだった。二人受賞だから、まあ、当然ということでしょうね。その後、新宿の「ナジャ」の2次会に行き、薄いお湯割り焼酎を四杯飲んで、12時前に家に帰った。翌日、入学試験の合格者の原案作成会議という合格者を決める会議が朝からあるので、最後までつき合うということが出来なかった。
高見順賞の賞状は、高見順の着物の生地で装丁して二つ折りになっている。内側には高見順の絵、「右の、、、」の文字は川端康成が書いたものという。そして審査員全員の署名がある。立派なものだ。これに、地球儀と賞金がつく。賞金は50万円だが、今回は二人受賞なので半分の25万円ずつということになった。
受賞の感想。授賞式で沢山の詩人と会うと、詩だけを書いて読んでいるときとは違って、自分の詩人としての存在の有り様のようなものを感じないではいられなくなるのですね。詩を書いて発表して、詩集を出して、認められたいと思う。昔流の言葉で言うと、「世に問う」ということなんでしょうが、その「世」というのが、ある広がりを持っている。社会全体から、詩を書いているということを詩の作者としての名前で知り合っている人々の比較的に狭い集合体まで。著名な詩人と無名な詩人。詩の賞というのは、ある意味で「詩」と「詩人」に広がりを持たせる。従って、詩人に取っては励みになる。昔貰った「H氏賞」の時は、詩の内容から世間的に話題になり、幾つもの新聞からインタビューを受けたり、原稿の依頼があったりしたが、今回は「日経」のインタビューだけでしたね。「世に問う」というその「問う内容」が社会にインパクトを与える度合いが、新聞などのマスメディアが扱えないくらいに薄かったというわけです。つまり、今度の受賞した詩集「胡桃ポインタ」は、わたしが勝手に書いた詩を、詩を書いている人たちの広がりというところまで拡げてくれたということといえましょう。詩の存在の仕方として、賞が社会的なものである以上は、いま新聞やテレビを賑わせている「鈴木宗男の話題」を一掃出来るものであればよかったなあ、ということになりますが、わたし自身そんなことは望んでいないし、100パーセントそういうことになる要素はない、のです。つまり、実はわたしは詩を書いたものとして、社会にインパクト与えるという点で、無力を問われているわけですよ。わたしは、その自分の無力に居直ろうと思います。無力に居直るということはどういうことかを、全身で感じ探って行きたいです。
大根の花が咲いた。
大根の花 |
わたしの家の庭で大根の花が咲いた。と言っても、一輪咲いたときは、大根の花と分からなかった。大根の花というと茎がすうっと伸びて、その先端に紫の可憐な花が咲く。ところが、家の庭のプランターに咲いた花は地面に接するように開いていたので、大根の花とは思えなかったのだ。プランターの栄養が欠乏していたというわけ。でも、気候の変化で、花は着実に咲く。東京での日差しもかなり強くなって、日向に立っていると暑いと感じる。先週からコートを変えた。昨日は風が冷たくて防寒コートを着て出かけたが、今日はまた暖かくて間のコートにした。
今日3月10日から、わたしが勤める多摩美・造形表現学部は一般入試が始まっている。明日と明後日、映像演劇学科の試験がある。試験は、英語と国語、それに実技。その実技というのは「創作」「作文」「面接」と課題を出して、受験生一人一人が映像作品を作ったり演じたりするのに充分な能力があるかどうかを判断する。今年の応募者は295人。創作の採点は作品の数が多いから見るのに朝から夕方まで掛かる。若い人たちが数時間念入りに作ったものに接するのは、ある意味では楽しいけど、それに向き合って一つ一つ善し悪しを決めていくというのは、かなりきつい。今年は、どんな子たちが合格して入ってくるか。とにかく、また4月から新入生たちとの一年間のつき合いが始まる。
線路脇の雑草の中からすくっと立って涼しげに咲いている大根の花。かたや、試験場で回答に熱気を込める受験生たち。そういうものたちに触れる三月の半ばというこの頃。
前田英樹著『在るものの魅惑』を読んだ。
前田英樹著『在るものの魅惑』の表紙 |
先月、若林奮/前田英樹著『彫刻空間』を読んで、前田英樹さんの考えをもう少し知りたいと思った。といううのは、「対論」の中で、前田さんが「自然とか社会とかとのっながりをある形で確立しようとする作品、そうした通路の確立が一種の探究であるような作品が私には面白い。彫刻や絵画は外的世界の表象──似姿──であることから手を切って久しいわけですが、しかしそれでも外側の世界と如何につながりを持つか、如何にしてそこに入り込むかという問題は、相変らず一番重要な問題としてあるはずです」と言っていた、その「外側の世界とのつながり」ということを前田さんはどう考えているのか知りたいと思ったからだった。それと、ずうっと以前に、『沈黙するソシュール』(1989)という本を貰って、未だに読んでいないので、その借りを少しでも返しておこうという気持ちが働いたということもある。
『在るものの魅惑』は、最初が映画についての文章だったので、カメラアイは肉眼とは違うと語られるところなど共感を覚えながらすらすらと読んでいけたが、記号と言語についての文章を集めた二番目のパート以降は何だか分かったような分からないような気持ちで読み続け、どうにか最後まで読み終えることはできた。結論としては、人間の感覚や観念では捉えきれないものが「在る」ということ、それが「魅力のあること」として人を引きつけて、人はそれに迫ろうとするのだということを、前田英樹的な言い方でいえば、その在るものの水準に照らして「記号」「言語」「芸術」のあり方を語っているので、わたしにはそういう「在るもの」を措定するということが、目新しく感じられて面白かった。ただ、言語学者や哲学者が創造して観念を渡り歩くような仕方でなければ、そういうものが語り出せないというようなので、頭の粗雑なわたしなどは読んでいてしんどくなるところもあった。しかし、それにしてもよく勉強している人だなあというのが感想。
前田英樹が「外側の世界」といっているのは、その「在るもの」のことなんですね。まあ、いってみれば、前田英樹の考えでは、人間が生きている外側には人間が感じたり考えたり、また知識として持っているところを越えた未分化の世界がある、ということらしいです。その在るものについて語ろうとすると、人はことばを使うが、更にその「ことば」そのものについて語ろうとすると、そこでことばを失ってしまう、その「ことばについて語ろうとしてことばを失う」、それを完遂したのが言語学者のソシュールだと考えたところから前田さんは出発したようだ。
ソシュールの言葉に従えば、ラングは抽象的なのではなく、ただひたすら「潜在的」なのである。潜在的なものは、その在り方の固有の本性において実在する。或る意味で、このような潜在性は、抽象性の対極にあると言ってよい。なぜなら、抽象的なものは、あらゆる場合において、すでに顕在化され終わったものを材料にし、出発点にし、そこに有効性の基礎を置いているからである。例文に基づく文法は、抽象的である。例文とは、すでに顕在化され終わったもの、つまり記録されたパロールの切り抜きであり、そこから組み立てられる文法は、潜在性としてのラングには属さない。ここで語られている「<在る>」が前田さんの考えの出発点なのではないかと思う。ここでは日本語の文法についていろいろと語られているのだが、わたしにはうまく辿りきれなかった。しかし、ことばを対象にする筋道でこの引用の件が出てくる。ことばを何らかのやり方で分節して対象化して、その関係を体系化していくというのが文法学者のやることだが、その対象化したところでことばはすり抜けてしまう。ことばはことばとして現れる前に潜在的なものとしてあり、その捉えきれない潜在性を捉えようとするとことに徹底したのがソシュールだったといっているのだと思う。ここに述べられている文章の構図を通して、前田さんは芸術家と物との関係、詩人と世界との関係、記号と世界との関係と、それぞれの水準で語って行くのだ。前田さんは批評家として、若林奮という芸術家が体当たりでやったこと、吉岡実という詩人が感性と感情でやったことを、潜在性を捉える「強度」という物差しで語る。当然だが、そこに選り分けと評価が出てくるわけで、そこが何となく気になった。
しかし、ここで注意しておこう。パロールは、厳密な意味でラングの顕在化ではない。奇妙な言い方となるが、潜在性としてのラングは、パロールに対して、ただそれが顕在化しうるための路を開いてみせるだけなのである。パロールが顕在化するのは、ランガージュという権利上の観念からでしかない。あるいは、ラングもまたパロールに顕在化するのだとしてみよう。その場合、顕在化とは、ラングの本性の最も根底的な転換を意味することになるだろう。ソシュールは、この転換をついに扱うことができなかった。それは、彼の言語学が、ラングの潜在性はどのような諸単位がそこに〈在る〉ことによって成り立つのか、という問いに果てしなく下降していくものだったからである。その下降の徹底性によって、彼は際限ない草稿という叙述の形式を、他人の眼には「沈黙」と映るような叙述の形式を選ばざるを得なかった。(「文法の中の日本語」171ページ)