牡丹の花が咲いた。パソコンの「PowerBox」が壊れたので交換した。
庭に咲いた牡丹。 |
牡丹の花のアップ、花心が心を誘う。 |
駄目になったPowerBoxの外観。 |
カバーを取ったPowerBoxの中。 |
鈴蘭が咲いた。「超漢字」を4年ぶりに起動。
庭に咲いた鈴蘭 |
「超漢字」の起動画面 |
「超漢字」のデスクトップ画面 |
「超漢字」の甲骨文字 |
ここ二日ばかり、「超漢字 B-right/v R2」という日本製のTRONをコアにしたOSを久しぶりに起動して見たりした。英・かな・漢字はもちろん、梵字や甲骨文字など、たくさんの言語が扱えるというので4年ぐらい前に買って、古いマシンのどれかにインストールしたのだったが、ネットにも、プリンタにも接続できなかったので、そのまま放り出して、忘れてしまっていたのだった。ところが、先週、TRONのことがテレビで放送されて、それを見た清水鱗造さんが「Urokocity_BBS」で「Linuxみたいにパソコンに組み込むことはできるのかなあ。」と書いていたのを読んで、自分がそのTRONのOSをインストールしていたのを思い出したのだった。だが、どのマシンの、どのハードディスクにインストールしたのか思い出せない。そこで、古いマシンの何処かにある筈の「超漢字」を探すことから始めた。
もう使ってない2台の古いマシンのどちらか、と見当をつけて、1台ずつディスプレイとキーボード・マウスをつけて起動し見た。先ず、棚に置きぱなっしになっていた1996年東芝製の「BREZZA」というマシンに電源を入れると、起動の途中で「BootMagicが設定のハードディスクを見つけられないの、環境設定ディスクを入れてくれ」と言って、止まってしまう。もう数年間に使わなくなっているので、そんなディスクがどこにあるかわからない。ハードディスクが見つからないと言っているんだから、このマシンにつないでいたハードディスクをつけてやればいいだろうと、外付けのハードディスクをくっつけて起動したらすんなりと起動した。しかし、このマシンには「Windows98」と「Linux」と「FreeBSD」がインストールされていたが、「超漢字」はインストールされたなかった。数年前にはいろんなOSを試みていたんですね。どれも満足に使いこなせなかったけど。
次に、床に転がしてあった1996年8月製の「Dell Optiplex GXL」。こちらは電源を入れると、ピコピコという警告音が発生して止まらない。そしてキーボードが認知されない。何度、電源を入れなおしても警告音だ。仕方ないから、別のキーボードをつけて起動すると、すんなりと起動した。後で、キーボードのコネクターを見たら、ピンが一本曲がっていた。しかし、起動はしたものの、起動したのはWindows98で、ハードディスクは一個しかない。そこで、インストールしてあった「PartitionMagic」でハードディスクを調べると4GBのハードディスクの後ろのほうに、不明の500MB余りのパーティションがあった。「超漢字」のフロッピーディスクやCD-ROMとマニュアルを探し出して、インストールの手順を見ると、502MBの領域を取るように書かれている。これに違いないと思って、「超漢字インストール」ディスクでマシンを起動して、パーティションの配分を見ると確かにそこに「超漢字」がインストールされていた。「超漢字」のマニュアルを見ると、どうやらインストールのことを「登録」というらしい。それならもう登録は済んでいるから、起動できるようにすればいいわけだ。それには、マスターブートレコードMBRを書き換える。それも、「超漢字」の「ディスク設定」で、起動時に選べるように簡単に設定することができた。さていよいよ起動。
起動は、先ずメモリチェックの後、OS選択メニューは現れ、そこで数字キーで「B-right」を選ぶと「超漢字」のロゴが表示されて、デスクトップ画面になった。その起動のファイルの読み込み中は、マウスポインターが湯気が出ている湯呑みを持った手なのだ。「超漢字」のマウスポインターはすべて手で「指差したり」「掴んだり」する形になっている。デスクトップにはユーザーの名前のついたウインドウが開いていて、その中に「原紙箱」「小物箱」というアイコンがある。「超漢字」では、アイコンと言わず「仮身」といい、開いたウインドウを「実身」というようです。「原紙箱」には「キャビネット」「原稿用紙」「メール用紙」「ブラウザ用紙」などがあって、つまりそれがアプリケーションなんですね。ただ、それをクリックして開けることはできず、「原稿用紙」を開いた「キャビネット」などのウインドウの中にコピーしてから使うことになるようです。つまり、仮身は実身の中で開いて使うことになっているようです。「小物箱」を開けると、「ユーザー環境設定」「システム環境設定」「ダイヤルアップ接続」「電卓」「時計」「トレー」「ユーザ辞書」などなどがあって、これは要するにコントロールパネルのようなものです。「超漢字サンプル集」の仮身を開き、更にその中の「超漢字・文字一覧」という仮身をクリックしたら、「アラビア文字」や「梵字」や「甲骨文字」が出てきた。これはどうやって使うのか。ユニコードの番号が付いているので、それで入力することになるのでしょう。
一応「超漢字」を起動できたの、これをネットワークに接続しようとやってみたが、この古いマシンのスカジーカードを認識してくれなかった。また、プリンターもドライバが適合しない。となると、コンピュータの外に出力できない、ということで、わたしの場合は「超漢字」の中でしか遊ぶことができないようだ。さっき、甲骨文字を画像にして、フロッピーディスクでWindows2000に持って来ようやってみたが失敗した。もう少し慣れてからできることを見つけよう。でも、WindowsやLinuxや、またMacも操作は似たところがあるが、これはまるっきり違うOSなので戸惑うことが多いですね。以前、インストールしたものの放り出してしまったのも、この違いについていけなかったわけで、「超漢字」を使いこなせるようになるかどうかは自信がないですね。
あっという間に、山吹の花が満開。
満開の庭の山吹 |
もう、4月も、もう12日になってしまいましたよ。4月の始めは今年の「イメージフォーラムフェスティバル2003」に出す映像作品「衰退いろいろ2002」のナレーションを考えて書きとめ、録音して、パソコンで音付けをして完成させ、そのテープをフェスティバル事務局に提出した。それが終ったら、映像演劇学科教員の懇親会、そして翌日、雨がザーザー降りの日に「イメージフォーラム付属映像研究所」の入所式、同じ日に続けてBクラスとCクラスで「自作を語る」という授業を2コマ、個人で映像表現をすることの意味合いを話した。腰が固まって疲れた。日曜を挟んで、映像演劇学科の辞めた助手副手の歓送会、翌日「多摩美・造型表現学部」の入学式、ガイダンスと連日連夜、何やかやとあって、4月に入ってからわたしは腰が痛くて、思うように立ち上がれず、参ったなあという思いで、この10日間を過ごしました。
イメージフォーラムの新入生は27期生、ここでわたしは講師を26年やったことになる。多摩美の映像演劇学科は二部芸術学科から数えて今年が15年目。毎年、卒業生が出て新入生が入ってくる。助手、副手、教員も出入りがある。3月4月は、わたしの生活の範囲の中で多くの人たちが過ぎっていく。先日、多摩美の映像演劇学科の授業ガイダンスで、学生が集まる教室に出て、1年生から4年生までの学生たちの顔をじっくりと見た。1年毎に顔つきが大人ぽっくなって行くのを感じた。特に女子学生の中には、3年生から4年生になって髪の毛をセットして容貌ががらっと変わった子がいた。映像演劇学科の学生数はおおよそ300名、わたしは1年生から担当するので、そのとき出来るだけ名前と顔と作った作品を覚えるようにしている。2年から3年までだと、230名くらいいる。その学生たちの80%くらいの名前は覚えている。立ち居振るまいが目立つか、積極的に話をするか、作品が印象的であるか、または欠席の多い、というような学生は名前を覚えやすいが、どうしても覚えられない学生もいる。わたしとしては出来るだけ名前を覚えようとしているのに、どうしても覚えられない学生がいるんですね。それが不思議です。来週からいよいよ授業で新1年生と顔を合わせる。今年はどういう学生がいるか楽しみです。
桜が満開、でも気分は鬱っぽい。
満開の桜の花(4月1日) |
満開の花をつけた桜の木 渋谷区富ヶ谷二丁目 |
朝、目が覚めるとベッドでテレビを点けて見るのが習慣になっている。従って、毎朝米英軍のイラク攻撃の戦況を伝えるニュースを見ることになる。今日辺りは、最前線では補給が間に合わないで兵士が一日一食しか食べてないとか、自爆攻撃を恐れて子どもや女を撃ち殺したとか、というニュースが流されていた。同じ画面に、日本では自動車や自転車で人を襲う通り魔に殺された人がいるというニュースも流された。イラクの人も、日本の人も、殺された人は思いがけずに命を失った。それぞれ明日の予定、また今年の夏の予定を立てていたんだろうな、と思う。人は予定を立てて生きている。死ねばその人の予定は果たされたない。その果たされないというところで、思いが重なって悲しみが生まれる。しかし、ニュースで見る人の死は、見知らぬ人のことだから、その悲しみが悲しみにならないで、気分を重くする。わたしはもともと春という季節は好きではないけど、一層、気分が重くなってくる。
昨夜は、この3月一杯で辞めた助手の富田友紀子さんと慰労と感謝の気持ち込めて、一緒に食事した。二部芸術学科から映像演劇学科へと10年間助手を務めてくれた。この4年間は1年生の「空間表現基礎」という科目をわたしと一緒にやっていた。「夜の散歩」「フロッタージュ」「作文」「発想」「人生の本」「演技構成」「映像構成」「企画制作」と正にいろいろなことをやって学生の創造力を引き出すのに、彼女がいてくれたので、どうにかその70人の学生たちを纏めて指導することができた。二部芸術学科の一期生の彼女は学生たちにとって、先輩でありお姉さんだった。学生たちから信頼が厚く、教科のことばかりでなく、人生の悩み、恋愛の悩みなどの相談相手だった。卒業制作では一人舞台を演じたが、その後助手をやる傍ら写真を学んで、毎年タイに行って子どもたちの写真を撮って展覧会に出したりしていた。彼女が撮った澄んだ目の子どもたちの写真を研究室の壁に掛けてある。夜間の学部の助手だったから、なかなか伴侶と出会う機会がなかったが、助手ももうあと一年という昨年素敵な男性と巡り会って、この春結婚した。ずっと同じ職場にいて、忙しい中でどんどん年を取っていく彼女を見ていて、気が気ではなかったので、彼氏と巡り会えたのを知ったとき、ほっとして嬉しかった。彼女に対して、ありがとうという気持ちと幸せになって欲しいという気持ちで一杯だ。昨年の今頃、助手を辞めたら他の大学の聴講生になってもっと勉強する、と言っていた彼女が思いがけなく結婚してしまった。奥さんになっても、タイの子どもの写真は撮り続けるだろうし、ノリノリの気分を出したディスクジョッキーも続けていくことだろう。ちなみに、この3月でわたしも「映像演劇学科長」という役職を辞め、4月から劇作家の清水邦夫さんが新しい「映像演劇学科長」になる。