多摩美映像演劇学科の卒制作品で十日間楽しんだ。
寒さで咲きあぐねている バラの蕾 |
十日町市などに行って、瞬く間に十日が過ぎた。
新潟の松之山町の 美人林というブナの林 |
チューリップの鉢を買ってきた。
買ってきたチューリップ |
7日、今年初めて銀行へ。暮れに生活費を下ろしてなかったので、生活費と自分の使う分を下ろしてきた。郵便局へも行って、暮れにインターネットで買った古本の代金を払い込んだ。本はインターネットで買う分が多くなった。アマゾンだと検索を掛けると直ぐ出てきて、クリックすればそれで買えてしまう。ただ本の中に目を通せないのであらかじめ内容が分った本でないと不安だ。そして一度購入すると、次にアクセスしたときわたし向けの「お勧め」の本がずらりと出てくる。妙な具合に関心がずらされている。で、自分はこういう本に興味がある人間と見なされているのかと苦笑いすることになる。古本を買うと、メールアドレスを知らせるから、メールで古本の情報が送られてくる。インターネットって、押しつけを受け入れる戸をわざわざ開いて置くというようなところがあるわけですね。それは兎も角、銀行と郵便局の帰りに、花屋の前を通りかかったらチューリップが目に入った。自転車で一旦通り越してからまた戻って二鉢買った。部屋の中に花があると感じが違いますね。いいですね。
午後は渋谷のアートフロントの事務所に「越後妻有トリエンナーレ2003/短編ビデオ・フェスティバル」の審査のために、応募作品を見に行った。代々木上原のホームで、昨夜、代々木八幡に初詣しようと思っていたのを思い出して、次の小田急代々木八幡で下車して参詣した。信心しているというより、毎年、正月は参詣しているので、行かないと気持ちが落ち着かない。代々木八幡から渋谷までは歩いた。腰が痛いので、歩くのがちょっとしんどかった。NHKの裏で多摩美の非常勤講師の大房さんにばったり出会った。珍しい。おめでとうの挨拶だけで分かれて、わたしは疲れたので10年ぐらい前によく行った喫茶店「アンカレッジ」に入った。そこで、持ていた「VAIO」を取り出して、「詩の発想」って何だ、というメモを書いた。多分、わたしとしては喫茶店でノートパソコンでメモ書きするというのは生まれて初めてのことだ。
詩について考えようとすると、先ず「詩はどのように発想されるのか」というところから始めなくてはね、というわけ。先ずは、人間にとって「詩の言葉」って何なんだろうか、ということですね。詩人にとって、つまり詩を書くことは当たり前のように感じられ、その言葉で自分を支えて行くことになるわけですが、とにかく「詩の言葉」をひねり出さないことには始まらないわけです。その言葉にどれだけ独自性があるか、それが問われるわけです。従って、他人が書いた詩には厳しくなります。実際、自分が詩を書くという立場で、それも独自性ということになると、一層厳しくなって、わたしでも、他人の詩でも、自分の詩でも、肯定できる詩はごくわずかしかありません。では、その「言葉の独自性」って何なのか、ということになりますね。つまり、独自性を持った言葉が詩の言葉ということになるわけですが、言葉に独自性を持たせるということが詩を書くということになるといえましょう。言葉は誰もが使うものです。その言葉に独自性を持たせるというのはどういうことなのでしょうね。これは、言葉というもののあり方を考えることにもなると思うのです。今日はここまで。
「もっと詩を書きたい」という年賀状。
雪を被った野ぼたん |
一月三日は、年賀状を見ていたら、雪になった。今年来たいくつかの年賀状に「詩を書いていません」または「もっと詩を書きたいと思う」と書いてあった。詩が書けなくなっているが、これじゃいけないと思っているんですね。わたし自身、昨年は余り詩を書かなかったから、もっと書きたいと思ったりするが、書こうという気が余りしない。詩って、競争意識で書くことはあっても、お互いに励まし合って書くものでもないと思うし、義務感に駆られて書くものでもないと思う。頼まれて書く場合は、チャンスと思って書くけど、義務だとは思わない。自分から進んで書こうという気持ちが起きることはあるが、書くというところまでに至らないで終ってしまうことが最近では多い。別のことをやっているうちに、これは詩になるかという発想が何処かに行ってしまう。まあ仕方がない。でも、結構、詩についてはいつも頭の何処かにあって考えているようです。
もう何十年も詩を書いてきたわけだから、何か詩についての考えを文章で纏めてみたいという気もある。だがどういう言葉で書けば良いかということが先ず問題になる。暮れに送られてきた詩集を整理していて、今詩を書いている人には詩というものについてある程度共通したイメージがあるというのを感じた。それは他の表現について言えることなのかもしれない。イメージフォーラムの生徒や多摩美の学生が作る映画というものは、何億も掛けて作る映画とは違うが、作っている彼ら彼女ら、それに付き合っているわたしなども、それも映画、あるいは映像表現として受け止めている。詩も、同様だ。わたしは、詩として書かれたものを、いろいろと思ったりするけど、これは詩じゃない、と言うことは滅多にない。だが、書かれた言葉の表現でも、詩でないものと詩との間には線を引いている。ある小説を詩的とはいっても、詩だとはいわない。記事やエッセイや論文にしても同様だ。詩だと意識して書かれたら詩なのか、そうだというしかない。じゃ、その詩を書こうと意識するという、そのことって何なのかということですね。17、8歳の頃、詩を書くのは面白くてして仕方なかった。どんどん書けた。その書き始めた頃には、詩っていうものははっきりしていた。今それを思うと、まあ初心に返るということになるわけですが、実はこの「転倒」こそが問題なわけです。昼間の雪は、夜には雨になった。