2003年1月1日から31日まで


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2003年1月31日

 多摩美映像演劇学科の卒制作品で十日間楽しんだ。


咲きあぐねている薔薇の蕾
  寒さで咲きあぐねている
 バラの蕾

 17日から26日までの十日間、多摩美映像演劇学科の卒業作品の発表会「Parade」が、四つのグループに分かれて、豊島区の「旧千川小学校校舎」、渋谷の「LE DECO」と「spaceEDGE」、下北沢の「TOLLY WOOD短編映画館」と、それぞれ別々の会場で催され、写真、オブジェ、映像、演劇などの36の作品が展示、上演、上映された。で、わたしはその四つ会場を経巡って見て歩いた。とりわけ、「TOLLY WOOD短編映画館」での上映は「しもきた映画祭」と称して、その中に他大学や専門学校の学生の作品を上映して、作者たちで討論をするという「学生映画サミット」をプログラムの中に組み込んだので、その「学生映画サミット」に付き合って三日ほど足を運んだりして、ほぼ一週間、学生たちの作品に漬かっていた。

 「旧千川小学校校舎」での発表は、地元の「豊島区旧千川小学校施設利用者協議会」と「千川駅前商店会」との共催ということにしなければならいというので、そこを発表会場と決めた昨年の夏から、季節ごとに地元の子どもたちを対象に行われる「お化け大会」や「フリーマーケット」や「文化祭」に参加して、それを踏まえての作品発表だった。わたしには、そのやり方や作品の持つ意味合いが新鮮で面白かった。映像作品を上映するといっても、10分か15分の作品を、暗幕を張った教室の中で、大きなクッションを置いたりベンチを置いたりして、ループで上映するというやりかただった。靴を脱ぎクッションに身をゆだねて見る大川景子さんの『ゆらんぎあい』は、妊娠した女性の心理と胎内の感じをイメージに具現したと受け止められる作品。堅いベンチに座って見る辻本亜才子さんの『タルカン』はシベリア辺りの若い男女が老人を中心に焚き火を囲んで自分が見た夢の話を話をする、その夢のイメージが重なるという作品。わたしは両方とも繰り返して2度見たが、それはスクリーンに上映される始めがあって終わりがあるという作品を見るのとは全く違う印象だった。映像と向かい合うというより包み込まれるという印象で、見るというより、若い女性たちの体感と意識を体験する装置に入っているという感じだった。

 その体験する装置そのものを作ったのが、海津晃子さんと松尾景子さんの作品『ストロマトライト』で、これは教室一杯に拡がるほどの大きさの円形の白い布を、参加する十数人の人が暗闇の中で布の端を持って、その布を上下に揺さぶって、かけ声を掛けて一斉に布の中に入り、それぞれが腰で布を押さえると、中に空気が溜まって全員が布のドームの中に入ることになる。そこで、そのドーム状の布に、一人の女の子が個という存在から社会的な多数の存在に変わっていくというアニメーション映像が映写されるという作品。中では静電気で髪の毛立って、わくわくした気分になる。お母さんと一緒に見に来たいた地元の子どもたちは、暗い中でのこの手品のような作品に大喜びで、大声で騒いでいた。装置といっても、遊園地の装置とは違って彼女たちのイメージに託す夢みたいなものの実現といえよう。

 地元の子どもたちと最も活発な交流を持ったのが、増田佳苗さんと松浦桃子さんたちの『かなちんのはなし』という展示作品。校庭に小さな小屋を作って、そこに「かなちん」というキャラクターにまつわる人形やアルバム、その他衣類やバッグなどを展示して子どもたちの目を引いていた。わたしの面白かったのは、彼女たちが夏と秋に「8ミリ映画大会」というのを地元の子どもたちと開いて、子どもたちに8ミリ映画のカメラを持たせて、獏の縫いぐるみ人形を使って作らせた映画の上映会だった。上映されたは、縫いぐるみの獏に紐を付けて子どもたちが引っ張って、お菓子屋に行ったり、校庭を走ったりするのを、子どもたちが撮影した単純なフィルムだった。上映が始まると、子どもたちは撮影したときのことをいろいろと口に出して言い合う。そして、紐で引かれた獏が転んでも引っ張ってられた行く場面で、子どもたちが画面に向かって「かわいそー」を大声でブーイングした。映画館ではあり得ないことだ。しかし、ここでは作った子どもも、見ている子どもも映像を共有しているから、上映という現在を言葉で活かしているのだと感じた。当たり前のことかもしれないが、それがわたしにはとても新鮮だった。作品という枠が越えられて行く、旧千川小学校ではそれを感じた。

 渋谷の「LE DECO」の展示作品にも面白いのがあった。『RYOKANあーばん一揆』という柴田岳史君と丸山愛子さんの作品。やや大きめのトランクに温泉旅館一式を詰めて持ち歩けるというもの。トランクの中には、折りたたみ式の畳、空気を入れてふくらます布団、屏風、浴衣、羽織、などが入っていて、これらを拡げて、トランクに脚を付けてちゃぶ台にすれば、何処にいても旅館が「味わえる」というわけだ。「携帯できる旅館、しかも着せかえ、カスタムフリースタイル、自分色で自分流のケータイ旅館で、辺境、残業、あらゆる制限を飛び越える新レジャーの誕生だ」という口上。

 「spaceEDGE」は『映像演劇空間プール』という一つの企画の中にオブジェや映像の展示があり、また演劇的パフォーマンスがあるというものだった。企画の段階で、「プール」という発想の意味合いは、会場は「膣」のような空間で、自分たちの作品を「卵子」として、見に来た人々を「精子」として想定して、そこで見に来た人が何らかの印象を受けて感じたり考えたりするということによって、「受胎」が成立することを目指す、という意図を聞いたときは驚いたのだった。発表会では、パフォーマンスが行われる部屋に小石ほどの発泡スチロールが詰まったクッションが置いてあって、それに座って三人の役者が二人ずつずれて展開する演劇を見ていると、発泡スチロールのせいでおしりが暖かくなってきたところで、女優たちのナルシステックなセリフが脳味噌を揉んでくれるだった。また、直径50センチくらいの手製の球形の蝋燭が灯る赤い布張りの六角の小部屋では、普段余り話ことなかった学生と話が進んだりした。写真やオブジェを見て通り過ぎてしまえばそれまでだが、居座ると心地いい、なるほど、「膣」を意図したというのはこういうことだったのかと思った。

 下北沢「TOLLY WOOD短編映画館」で上映された作品は五つのプログラムで作品14本、合計の上映時間は411分だった。それに他大学の学生の作品が毎日90分、討論が90分ぐらい加わるといった具合で、4年生の作品と他校の作品と討論に付き合って、3日間連日6時間ないし7時間のつき合いとなった。途中の休憩時間に腹ごしらえしようと外に出て蕎麦屋を探したが、TOLLY WOODの隣りが蕎麦屋なのに時間外で食べられなかったり、他の店は休みだったり、閉店になっていたりで、下北沢ではそばが食べられないという印象が残った。それは兎も角、作品を見たところでは、戸田彩帆さんの『柿の木姫』に心を揺さぶられ、高宮大君と森野広明君の『カイム』、小玉哲也君と仁平有香さんの『キョウハオレ』が面白いと思った。また、関根陽子さん、高橋朋子さん、張本香織さんたちの『寒い、眠い、青い』はある意味で女性の感性を開こうとするものとして発見だった。

 戸田彩帆さんの『柿の木姫』は柿の木の精が主人公となって四季の移り変わりをイメージで語り出していくという作品。その精を様々な着衣を着けて化粧した女性が踊ったり、笛を吹いたり走ったり、また死んで川面を流れていったり、地中に埋葬されたり、と演じる。そのイメージ展開に作者の鋭い神経が感じさせられ、春、夏、秋、冬と日差しと風の変化が風景や仕草の演出に表される。わたしは、柿の木姫が死んで川面を流されていくシーンで、何か終末感のようなものを感じてドキッとさせられたのだった。

 高宮大君と森野広明君の『カイム』は、高宮君の幽霊スポットを訪ね歩くドキュメンタリーと、神経質で世を憂いているミュージシャンを描いたフィクションを一つにして、東京という都市にアプローチすることを試みた作品で、その「幽霊スポット」とかミュージシャンの「生活意識」とかという特異な視点から、思わぬ東京の姿が見えて来るところが面白かった。高宮君は卒制で映像作品を作らなければならないことになって、どうせ作るなら、幽霊スポットとかといわれている所へ行って、その非合理に断を下してやろうと出かけるが、東京という都会では非業の死を遂げた人々の数の多さに圧倒されてくる。そして訪ねた寺の住職にも幽霊の存在を語られてしまう。一方、ミュージシャンはビートルズ以来のミュージックシーンから抜け出そうと苛立つ意識を持てあました末に、都営大江戸線の新宿駅の乗り換えの不合理性を、公衆電話から都庁の役人に言いつのり、挙げ句の果てにマンションの屋上にバスタブを置いて、爆竹を鳴らして背広で水風呂に漬かるという始末。現実の表層を剥がしたいが、その表層を掴むこともできない若い知性の苛立ちが伝わってくる作品だった。

 『キョウハオレ』を仁平有香さんと組んで作った小玉哲也君は、パンクロックのミュージシャン。彼がパンクの道に入ったのは、パンクロックミュージシャンのカリスマ的存在の「ノリ君」の演奏を聴いたからだった。その「ノリ君」が最近パンクシーンに姿を現さない。ミュージシャン仲間に聞いても分らない。一体ノリ君はどうしているのか、手紙を出しても返事も来ないし、訪ねていっても、住んでいるところもあやふや。一方、小玉君は三軒茶屋という都会のど真ん中の、それも国道246沿いの空き地の木の茂みでキツツキを見た。そのキツツキをもう一度見たい。そこで、その空き地の付近の住民や通行人に、「キツツキを見なかったか」と尋ね歩く。住民の反応は冷たく、通行人はろくに相手にしてくれない。このノリ君探しとキツツキ探しを二つの軸に、ロックミュージシャンを目指す大学生の姿や、北海道まで行って撮影してきたキツツキの姿を挟んで展開する。そして、最後に夜訪ねたノリ君の家の前でノリ君に会える。通されるままに家に上がると、ノリ君は可愛い赤ちゃんと奥さんと暮らすプログラマーを目指すサラリーマンに変貌していた。彼は、本当にロックをやりたいから、自由な立場で収入を得られるプログラマーになる修行をしているんだという。卒業を控えて、気になる人生というヤツを、都会のキツツキをロックミュージシャンと重ねて、歩き回って考えたという作品になっていた。爽やかな印象に、見終わって拍手したい気になった。

 今年の卒制の作品は、全体を見渡して、従来の作品という枠から外れていくという傾向が感じられた。その拡がり方が新鮮な感じだった。表現する意識の原点を自分自身に置いているから、それぞれ撮影する、あるいは発表する現場での自分の姿にヒロイックなナルシズムを感じながら、素材をゲーム的に遊んでいる。ナルシズムとゲーム、それが今現在の若い人たちの表現意識を支えていると言えるようだ。とにかく、売り物にはならないと思いながらも、表現する気持ちに一途になっている作品の姿に接しているのは実に気持ちがよかった。人に話すと、作品の多さに「大変でしょう」と反応が返ってくる。わたしとしては、疲れることは疲れるけど、疲れるほど楽しめるってことは得難いと思っている。




2003年1月18日

 十日町市などに行って、瞬く間に十日が過ぎた。


新潟県松之山町美人林
  新潟の松之山町の
 美人林というブナの林

 全く、この十日間は瞬く間に過ぎた。10日11日と越後妻有トリエンナーレが行われる十日町市、松代町、中里村、津南町、川西町、松之山町を車で案内して貰った。そして帰って、12日13日と短編ビデオ作品の残りの30本を見て、180本の審査対象作品を全部見終わった。14日は多摩美で1年生の制作の中間報告、15日は転部転科の希望者の面接、16日は教授会と映像演劇学科の新カリキュラムの確認と選択のシミュレーション会議、昨日は読まなければならない短編小説を九つ読んだ。今年は、寒いから腰が痛い。それがちょっと辛い。

 越後妻有に行って雪景色を見れたのとジェームズ・タレルの「光の館」に行けたのがよかった。印象に残ったのは、松之山町の「美人林」というブナ林に行ったこと、それから「JUSCO」とか「むさし」とかいう巨大スーパーだった。

 今度短編ビデオ部門の審査員になったので、2年前に行われたところを一応見ておこうと、事務局の人の現地の人との打ち合わせに便乗して案内して貰ったというわけ。彫刻作品は殆ど雪に埋もれて見ることができなかったが、場所の雰囲気は分った。タレルの「光の館」も2年前の時に、地元の民家の様式で建てられた家で、屋根の一部が可動式になっていて、天井を開いて夕暮れの空の光の変化を見るという仕掛けが作品になっている。見るには、予約して宿泊しなければならない。わたしたちが訪れた日は積もった雪で屋根が動かせなかった。でも、家の中の部屋それぞれに、浴室に至るまで、壁などに窪みが作られ、光ファイバーなどで綺麗にライティングが施されているのは見ることができた。季節のよい頃、是非とも宿泊してみたいと思った。車で国道を走っていたら「美人林」という標識があったので、脇道に入って案内して貰った。ところが、途中まで行ったら、雪で通行止めになって行けない。で、また別の道から入らなければならなかった。駐車場に車を止めて、かなり深く雪の積もった道を、わたしは転びそうになりながら歩いた。足がおぼつかない、ということ。こういうとき、自分が年を取ったのを思い知らされる。歩いていくと、ブナの木の林が広がっている。その木肌の美しさを土地のひとは「美人林」と言ったのだろう。月の光の下で見たら、裸の女性たちが戯れているように見えるのかもしれないと思った。近くに川俣正の作品があるということだったが、雪で行けなかった。十日町市にあるスーパーの「JUSCO」と「むさし」にも、入ってみて驚いた。1階のだだぴっろいフロアーに何でも売っている。どうしても、歯が欠けたように閉店した店が多い古い商店街と思い比べてしまい、新旧を対比して感慨を持った。越後妻有トリエンナーレは地域振興を目的に開かれることになったというが、芸術というもののパブリックな役割を改めて考えさせられることになった。帰りの自動車の中で、その「パブリック」ということについていろいろと話を聞いた。



2003年1月8日

 チューリップの鉢を買ってきた。


買ってきたチューリップ
 買ってきたチューリップ

 7日、今年初めて銀行へ。暮れに生活費を下ろしてなかったので、生活費と自分の使う分を下ろしてきた。郵便局へも行って、暮れにインターネットで買った古本の代金を払い込んだ。本はインターネットで買う分が多くなった。アマゾンだと検索を掛けると直ぐ出てきて、クリックすればそれで買えてしまう。ただ本の中に目を通せないのであらかじめ内容が分った本でないと不安だ。そして一度購入すると、次にアクセスしたときわたし向けの「お勧め」の本がずらりと出てくる。妙な具合に関心がずらされている。で、自分はこういう本に興味がある人間と見なされているのかと苦笑いすることになる。古本を買うと、メールアドレスを知らせるから、メールで古本の情報が送られてくる。インターネットって、押しつけを受け入れる戸をわざわざ開いて置くというようなところがあるわけですね。それは兎も角、銀行と郵便局の帰りに、花屋の前を通りかかったらチューリップが目に入った。自転車で一旦通り越してからまた戻って二鉢買った。部屋の中に花があると感じが違いますね。いいですね。

 午後は渋谷のアートフロントの事務所に「越後妻有トリエンナーレ2003/短編ビデオ・フェスティバル」の審査のために、応募作品を見に行った。代々木上原のホームで、昨夜、代々木八幡に初詣しようと思っていたのを思い出して、次の小田急代々木八幡で下車して参詣した。信心しているというより、毎年、正月は参詣しているので、行かないと気持ちが落ち着かない。代々木八幡から渋谷までは歩いた。腰が痛いので、歩くのがちょっとしんどかった。NHKの裏で多摩美の非常勤講師の大房さんにばったり出会った。珍しい。おめでとうの挨拶だけで分かれて、わたしは疲れたので10年ぐらい前によく行った喫茶店「アンカレッジ」に入った。そこで、持ていた「VAIO」を取り出して、「詩の発想」って何だ、というメモを書いた。多分、わたしとしては喫茶店でノートパソコンでメモ書きするというのは生まれて初めてのことだ。

 詩について考えようとすると、先ず「詩はどのように発想されるのか」というところから始めなくてはね、というわけ。先ずは、人間にとって「詩の言葉」って何なんだろうか、ということですね。詩人にとって、つまり詩を書くことは当たり前のように感じられ、その言葉で自分を支えて行くことになるわけですが、とにかく「詩の言葉」をひねり出さないことには始まらないわけです。その言葉にどれだけ独自性があるか、それが問われるわけです。従って、他人が書いた詩には厳しくなります。実際、自分が詩を書くという立場で、それも独自性ということになると、一層厳しくなって、わたしでも、他人の詩でも、自分の詩でも、肯定できる詩はごくわずかしかありません。では、その「言葉の独自性」って何なのか、ということになりますね。つまり、独自性を持った言葉が詩の言葉ということになるわけですが、言葉に独自性を持たせるということが詩を書くということになるといえましょう。言葉は誰もが使うものです。その言葉に独自性を持たせるというのはどういうことなのでしょうね。これは、言葉というもののあり方を考えることにもなると思うのです。今日はここまで。



2003年1月4日

 「もっと詩を書きたい」という年賀状。


雪を被った野ぼたん
 雪を被った野ぼたん

 一月三日は、年賀状を見ていたら、雪になった。今年来たいくつかの年賀状に「詩を書いていません」または「もっと詩を書きたいと思う」と書いてあった。詩が書けなくなっているが、これじゃいけないと思っているんですね。わたし自身、昨年は余り詩を書かなかったから、もっと書きたいと思ったりするが、書こうという気が余りしない。詩って、競争意識で書くことはあっても、お互いに励まし合って書くものでもないと思うし、義務感に駆られて書くものでもないと思う。頼まれて書く場合は、チャンスと思って書くけど、義務だとは思わない。自分から進んで書こうという気持ちが起きることはあるが、書くというところまでに至らないで終ってしまうことが最近では多い。別のことをやっているうちに、これは詩になるかという発想が何処かに行ってしまう。まあ仕方がない。でも、結構、詩についてはいつも頭の何処かにあって考えているようです。

 もう何十年も詩を書いてきたわけだから、何か詩についての考えを文章で纏めてみたいという気もある。だがどういう言葉で書けば良いかということが先ず問題になる。暮れに送られてきた詩集を整理していて、今詩を書いている人には詩というものについてある程度共通したイメージがあるというのを感じた。それは他の表現について言えることなのかもしれない。イメージフォーラムの生徒や多摩美の学生が作る映画というものは、何億も掛けて作る映画とは違うが、作っている彼ら彼女ら、それに付き合っているわたしなども、それも映画、あるいは映像表現として受け止めている。詩も、同様だ。わたしは、詩として書かれたものを、いろいろと思ったりするけど、これは詩じゃない、と言うことは滅多にない。だが、書かれた言葉の表現でも、詩でないものと詩との間には線を引いている。ある小説を詩的とはいっても、詩だとはいわない。記事やエッセイや論文にしても同様だ。詩だと意識して書かれたら詩なのか、そうだというしかない。じゃ、その詩を書こうと意識するという、そのことって何なのかということですね。17、8歳の頃、詩を書くのは面白くてして仕方なかった。どんどん書けた。その書き始めた頃には、詩っていうものははっきりしていた。今それを思うと、まあ初心に返るということになるわけですが、実はこの「転倒」こそが問題なわけです。昼間の雪は、夜には雨になった。







 
 















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