2001年11月1日から30日まで


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2001年11月30日

 新しいOSのWindowsXPをインストールした。


WindowsXPの起動画面
WindowsXPの起動画面に出てくるロゴ

最初のデスクトップスクリーン
最初のデスクトップ画面

ユーザー名
 ユーザー名を選ぶ画面

ユーザー名
 デスクトップを秋なので銀杏並木に変えた

 11月16日に売り出されたWindowsの新しいOS、WindowsXPのHOME Editionを18日に買って来てインストールして、一週間、いろいろとやって何となく感じが掴め、その感想をこの「曲腰徒歩新聞」に書き始めて、書き上がらない中に、また、もう一週間が経ってしまった。時間が経つのやたら速い。その一週間の間に、勤めている多摩美では「社会人入試」があって、来年度の新入生の一部が決まった。家に帰ってくるとパソコンのウイルス感染で、スキャンしたり駆除したりで時間を取られた。そして、今日はとうとう11月の末日となった。

 WindowsXPは普段あまり使わない中古のマシンに試みにインストールした。ウインドウの色などはちょっと違和感があるが、フォルダーやファイルの表示が、設定の仕方で内容が見えるようになり、使い易くなったと感じた。きっと、それだけにトラブルが発生したらお手上げになることと思う。Ctrl+Alt+Deleteキーで「Windowsタスクマネージャー」を起動すると、プログラムの強制終了ばかりでなく、切り替えも出きるようになったし、そこでCPUの稼働率をグラフで見ることも出きる。わたしはパソコンが好きでこれまでにいろいろなOSをやってみた。Windowsは3.1から始めて95、98、98SE、ME、2000 Professionalとやって来て今度は六年目でXP。Macは漢字Talk7からOS 9.0まで、LinuxもいくらかFreeBSDもいくらか、このUNIXの両方は手に余って使いこなせないでいる。いろいろなOSをやってみたいと思うのは、ひたすら好奇心のなせるところ。あーだこうだやっているうちに、OSの中身がばらばらっと出てきてしまったり、エラーとなって、その中身に踏み込まなければならなくなるともう夢中になってしまう。コンピュータの専門家でないから、そのパソコンのブラックボックスの中にちょっと入っただけで、ワクワクしてくる。迷路遊びになってもう止められなくなるというわけ。

 WindowsXPは、雑誌の記事には「32bit OS」と書かれている。ということは32bitを単位にデータ処理が出来るCPUをフルに使えるということ。32車線の道路幅をフルに使えるようになったわけ。WindowsNTや2000 Professionalは既にもうそうなっていたが、Windows98やMEは32bitに16bitが混在、つまり32車線の一部が16車線幅と混在していた。もうその16bitが無くなった。次は64bitへと向かっていくという。データ処理がますます速くなっていくということだ。文章を書くためのワープロなら16ビットで充分に違和感無く使えるが、3D画像のムービーをスムーズに処理するためには32bit以上必要ということなのでしょう。ところで、パソコンを使っている人で、この32bitって何だ、と子どもから聞かれて、すらすらと答えられる人はどれくらいいるのでしょうね。0と1で表すの2進数が32桁まで使える、ということは0と1の組み合わせが45億通り、、、、????ますます感覚で把握できる範囲を超えていく。感覚では捉えられないものを感覚的に使っていく。というより、感覚で直感的に扱えるようにするために「45億通り」という幅が必要なのだろう。連続した感覚の感じ分けにはもっともっと広い幅が必要なのだろう。「32bit OS」のWindowsXPになってようやくフォルダーのアイコンが「記号」でなく、書類入れの「絵」に似てきた。「64bit」になったら、指先で書類をつまみ出せるようになるかも知れないですね。

 知ったかぶりの前置きが長くなってしまった。とにかくわたしとしては、パソコンでは合う合わないということがよくあるから、新しいOSにアップグレードするのには用心深くなっている。普段使っているソフトやハードが使えなくなると困るからだ。そこで、普段あまり使っていないWindowsNT4.0プラスServicePack5で動いている1996年DEC製のマシンにインストールすることにしたというわけ。雑誌で見るとWindowsXPが動く条件は、300MHz以上の動作クロックのCPU、メモリ128MB、ハードディスクの空き容量1.5GB、あとはSuperVGA以上のディスプレイとCD-ROMドライバーがあればいいということだった。
 このマシンにはもともとPentiumPro200MHzが乗っていたが、今年の2月にCeleron466MHzにアップグレードしたのだった。CPUは大丈夫。ハードディスクもEIDEに2GBと6GBの2個、SCSIに8GBが1個接続してあって、空き容量は充分ある。しかしメモリは97MBしかなかったので、増設しなければならなかった。ところが、このマシンは古いからメモリのソケットが70pinのSIMMソケットで、今はもうパソコンショップには売ってない。で、インターネットで探してみたら、中古販売店で32MBのメモリ2本がセットになって2900円余りで売っているの見つけた。それを通販で買った。2日で届いた。メモリは秋葉原まで探しに行かなければならないかと思っていたので、何だか拍子抜けした感じだった。そして、メモリを差して、163MBとして、いよいよWindowsXPのインストールに取りかかった。WindowsNTとデュアルブートにしようと思ったから、NTをアップグレードしないで、新規インストールにした。およそ1時間余りですらすらとインストールされて、IDとユーザー登録をインターネットで行って、全て完了した。パソコンでは「終了」と「完了」は使い分けされている。ソフトを終わらせるのを「終了」、インストールが終わるのを「完了」ということだ。このOSのインストール中に画面に出てくるOSの自己宣伝の言葉に、「複数のユーザーの設定」や「簡易ビデオ編集」や「ネットワーク構築」など、同じ言葉が繰り返されて興ざめだった。

 インストールが終わって再起動したら、WindowsXPのロゴが3D調で出て、そろばん玉が左から右へ動いて、ユーザー設定の画面になったので、「志郎康」と本名の「康之」とで二人のユーザーを登録した。「ようこそ。志郎康」の「志郎康」をクリックすると、デスクトップにゴミ箱一個の緑の丘が現れた。確かに起動時間は速くなった。「スタート」にポインタを持って行くと、MEまでデスクトップにあった「マイコンピュータ」や「マイネットワーク」のアイコンが上の伸び上がる薄い青色のメニュウインドウの中に入っていた。これは、知人に教えられてデスクトップに現れるようにカスタマイズした。それに今は秋なのでデスクトップも黄色い葉に衣替えした銀杏並木に変えた。「マイコンピュータ」を開くと、ドキュメントフォルダー」と「ハードディスク」が書類挟みつまりフォルダーの絵とハードディスクの絵で現れた。全て絵本ぽくなっている。わたしは、そのデスクトップのスクリーンを取るために、先ず「画像変換プロ」というソフトをインストールしてキャプチャーしてみた。ちゃんと取れたので、98SEやMEで使っているソフトが使えそうだという見当がついた。それから、ネットワークの構築をした。これはスムーズにいった。95の頃のいちいちフロッピーだのCD-ROMだのを出し入れしながらの構築から比べたら「夢の超特急」並みといえるのかも。わたしが買ったのはHOME Editionだったせいか、グループの初期名が98SEまでは「WORKGROUP」だったのが「MSHOME」になっていた。ホームLANが普及したということなのか。Microsoftに戦略なのか。プリンタはわたしのところはTCP/IPを設定したネットワークプリンタを使っているが、この設定も簡単だった。しかし、テスト印刷したら、このネットワークプリンタへの接続にかなり時間が掛かった。

 次に、DVデッキからのムービーの取り込みはどうか、試みた。このマシンにはAdaptecの「HotConnect Ultra AHA-8594」という1394のデジタルビデオ取り込み用のカードが差してある。で、「Windowsムービーメーカー」を立ち上げて「録画/録音」をクリックしたが出来なかった。それで、「AHA-8594」用のドライバをインストールして、同時にこのカード用の「DVDeck」という取り込みようのソフトもインストールした。そこで、再びムービーメーカーを立ち上げて「録画」を試みると、ディスプレイの画面がすっ飛んで、なにやら英語で書かれた青い画面になって、再起動が掛かってしたしまった。再起動後、デスクトップに戻ると、Microsoftにクラッシュの技術報告のウインドウが出た。「報告する」をクリックすると、インターネットの「オンライン クラッシュ ダンプ解析サービス」のホームページに接続した。そこでパスワードを登録してクラッシュが起こった手順などを書き込み、報告した。後で解析の結果を知らせてくれるらしい。この8594は使えないのか、とちょっとがっかり。こんどは、「DVDeck」を起動して取り込みを試みるとこれはうまくいったのでほっとした。このソフトを試みた後、もう一度ムービーメーカーで取り込みをやってみると今度は取り込めた。ムービーメーカーの取り込みでは、ちょっとカクカクと動く一秒15コマの形式が「.WMV」の拡張子の付く形式のファイルになるが、DVDeckではスムーズな「.AVI」の形式だった。ムービメーカーの取り込みは、画像も320×240と小さく、インターネットに流すことを前提にしているようだ。

 WindowsXPには「スタートメニュ」の中に「電子メール」というのがあって、ここをクリックして登録すると、msnメールのアカウントを得ることができる。そのmsn Explorerを使えばメールだけでなく、メーリングリストに加入したり、相手を決めてグループを作ればチャットもできるようだし、ショッピングもできるようだ。ここのところがWindowsXPの新しいところといえよう。わたしの生活はインターネット無しでは始まらない。WindowsXPはそういう生活形態を一元化しようというOSを目指しているようだ。しかも、そのデスクトップの絵柄が絵本じみているというに怪しさを感じる。しかし、毎日使っているうちにそれに慣れちゃうんでしょうね。




2001年11月19日

 「横浜トリエンナーレ2001」の三つの作品を考える。


グエン=バツシバさんの作品
ジュン・グエン=バツシバさんの作品の
「横浜トリエンナーレ2001」カタログ掲載ページ 

ハム・キュンさんの作品
ハム・キュンさんの作品の
「横浜トリエンナーレ2001」カタログ掲載ページ
 

マッツ・イェルムさんの作品
 マッツ・イェルムさんの作品の
「横浜トリエンナーレ2001」カタログ掲載ページ


 「横浜トリエンナーレ2001」を見て、わたしの中に残ったのは、やはり限定的に考えても出品されていた美術家たちの作品がほとんど映像を使っているということだった。「美術表現」がどういうことになってなっているのかということ。一方では、わたしが「極私的EBIZUKA」で撮影した海老塚耕一さんのような素材に拘り、素材を人の営為の対象として、考えたり感じたり手や身体を動かしたりして事物として実現することを「美術表現」としている人もいる。この展覧会にもそういう作品を出品していた作家もいた。数十メートルもある巨大だ泥だらけのワンピースを吊して水を流した作品の塩田千春さん。銃弾で穴だらけの一台の貨車を展示したオノ・ヨーコさん。2000個のミラーボールを横浜港の一角に浮かべ、またブースを同じミラーボールで満たしていた草間弥生さん。A会場の天井からコンクリートを敷き詰めた床に水を落下させる、というか叩きつけていた遠藤利克さん。そういう作品は、その場に立ち会い、驚き、作家たちの営為に思いを馳せ、素直に作品が発散する活力を受け止めることができた。

 確かに、海底に沈めた三輪タクシーを潜ったり水面で息をしたりしながら押す男たちの映像をブースの壁面に映写していたにジュン・グエン=バツシバさんの作品にも、8台のビデオモニターに映像をながしていたハム・キュンさんの作品にも、また都市や黒人の演説や水害の情景や植民地の人の姿を三面マルチで壁に映写していたマッツ・イェルムさんの作品にも、収斂する活力は感じたが、事物との出会いとは違っていた。そしてまた、確かにわたしが作っているような「映像作品」というものとも違う。感じさせるものはそこにあるが、つまりイメージが意味を実現しているが、その意味の実現の仕方が違う。それは、映像を使って「美術表現」する作家たちが自分たちの欲求を実現するためにそこに至った「意味の場」として受け止めなければならないのだろう。彼らはこの場面ではとにかく事物を手放して、映写される「イメージ」を手にした。そういえば、わたしのところの多摩美の映像演劇学科の入学相談会で、「お宅には、ビデオプロジェクターが何台ありますか」と聞いた受験生がいたということだ。「上映」ではなく、「映写」というわけ。

 カタログの解説によると、ジュン・グエン=ハツシバさんは1968年にベトナムに生まれて今もベトナムに住んでいる。作品に「ナ・トラン{ベトナム)の記念プロジェクト─複雑さへ─勇気ある者、好奇心を持つ者、そして臆病者のために」という題が付けれている。三輪タクシー、それは「この町の安い伝統的な交通手段は多くが、ベトナム戦争で戦ってきた後、職につけない貧しい階級の人々によって構成されている」という。ジュン・グエン=ハツシバさんは屋外インスタレーションとして1998年にホーチミン市で建物の2階まである大きな蚊帳を作り、それには外側に複雑な迷路の模様が縫われていたという。今回出品された作品は、「シクロ(三輪タクシー)のドライバーたちと70年代から80年代にかけてボートで国を逃れようとした多くのベトナム人たちに捧げるためのフィルム」だということ。
 巨大な蚊帳から海底に沈めたシクロを押す人たちの映像へ、物からイメージへの道筋が辿れるような気がする。蚊帳も海底のシクロの映像も比喩というわけ。蚊帳を巨大したことで道具の域を超えたものとして、現実の蚊帳が担っている意味合いを表すものにした。蚊帳は物としての実感を保ちながら意味の場へ移された。そこでは蚊帳は物質性とイメージの両方を持って比喩として機能している。この物の現実の場から意味の場への移行が、今度の作品ではシクロを海底に沈め人がそこで押すという情景を実現することによってなされ、その意味の上澄みが展覧会の会場へ持ってこられたというわけ。作者は自分が生きる現実に向き合って、イメージをその表現する意味合いに収斂させる。事物だと取り巻く環境と融合して意味は拡散していくがイメージだと収斂してしまうところが面白い。

 カタログで8台のビデオモニターを置いたハム・キュンさんのページを見ると、これは「チェイシング・イエロー(Chasing Yellow=黄色を追跡する、狩る)」というプロジェクトで、1966年韓国生まれで現在韓国に在住している作者は「この2、3年、アジアの各都市で、黄色い服を着た人々を追跡し、それをビデオに記録するというユニークなプロジェクトを展開してきた」ということ。そういえばわたしが見た頭に瘤のある占い師も黄色い衣装だった。隣のモニターに映っていたのは歌舞伎役者ではなく、浅草の大衆演劇の座長だったようだ。つまり、8台のモニターに映っていたのは、それぞれ黄色い衣装を身に着けた人々だったということ。黄色い衣装の人を見つけたら、可能な限り追いかけて記録するということらしい。その人がどういう人か何が起こるか分からない。確かに撮る方にはそれはスリルがあって面白いかも知れないが、見る方に取ってはそれは既に予定されているものにしか過ぎないのではないかという気もするが。わたしは「黄色い衣装の占い師」を見たが、出会いとまでは行かなかった。全部見ると、「黄色」という一つの観念から出発して、人々のバラエティに至るということになるのかも知れないが、8台全部のモニターにつき合うという気にはなれなかった。
 作者の言葉として「私は自分のアートの拠り所を、図書館(Library)と実験室(Laboratory)というふたつの場所に求めます(Lib&Laboというのが私の活動のシンボルです)」と書かれていた。「図書館は世界に開かれた窓、実験室はアーティストが実験を行うアトリエ」ということだ。これを読んで、意外に思ったと同時に、そうかあ、という思いも持った。わたしにはどうも作者と向き合ってしまう癖があるが、この作品の場合、作品は一つの装置でそこを通して世界に向き合うことが要請されていることなんだ。作者が出した「黄色い服」という問題提起に、黄色い服といってもいろいろな人がいるなあ、と応じて、その先は見る方が主体的に問題として受け止めるかどうかということになわけ。問題の共有の仕方はいろいろだ。

 1958年スウェーデン生まれ、現在スウェーデン在住のマッツ・イェルムさんのページでは、1960年代に考え出された「ブラック・パワー」について、非暴力も一つの暴力だと言われたということから、暴力の問題が論じられていた。わたしが見た映像は、驢馬で生活する人々の姿、都市の夜の情景、植民地風の軍楽隊、中央の演説する黒人の姿、水害の風景、ピエロの姿などなどだったが、それらは「暴力というテーマ」で統一されていたわけだったのか、と改めて思った。三面マルチがどう関連づけされたのかもう思い出すことも出来ない。全部見なかったということもあるが、全部見ても、映像の中で話されている言葉も理解できなかったから、作品をまっとうに受け止めることは出来なかっただろう。映像はイメージとして直接的だが、それだけにそれが担っている意味合いを開いてみせることには難しいところがある。こういう作品にぶつかるとそれを痛切に感じないわけにはいかない。

 まだまだいろいろな作品があった。そして、それぞれの作品が作者が抱えた背景を持っている。考えようとすると、その背景を一つ一つ辿らなければなるまい。とすると、結構大変だ。それは、多分、あらゆる作品というものについていえることだと思う。二、三の作品を取り上げて、あれがいいこれがいいと説いたところで始まらない。たまたまそれと出会いを持てたということにしか過ぎない、と思う。





2001年11月13日

 「横浜トリエンナーレ2001」を2日掛けて見た。


横浜トリエンナーレ2001カタログ
 「横浜トリエンナーレ2001」の
 入場券、会場マップ、カタログ。

 今月の初め、1日と4日の二日掛けて、「横浜トリエンナーレ2001」を見に行ってきた。1日の午後は、渋谷から東横線で桜木町に行き、A会場の「パシフィコ横浜」まで歩いたら20分以上は掛かると思ってバスで行った。77人の作家がそれぞれ小さなブースに区切られて、作品を展示したり上映したりしていた。映像が多いと聞いていたが、平面作品や立体作品が展示されているブースは少なく殆どがブースの壁面に繰り返し映像を上映していた。1時半から4時半まで3時間余り会場内を歩き回ったが、帰ってきてから、マップを見て思い出そうとしても思い出せないものがあったから、見落としたのかも知れない。帰りは、夕方、暮れかかった「みなとみらい21」のさくら通りから日本丸メモリアルパークを経て桜木町まで歩いた。疲れて一人でデートコースを歩くのはちょっと味気なかった。

 4日はちょっと家を早めに出て、昼過ぎ桜木町に着き、歩いて「クイーンズスクエア横浜」のC会場とされた通路に展示されている2作家の巨大な写真と暗室や囲いの中に置かれた3人の作品を見て、更に「臨港パーク」にある三つの作品を見に行った。それから、「インターコンチネンタルホテル」の脇を歩いて「赤レンガ1号倉庫」へ向かったが、途中疲れたので「ナビオス横浜」のロビーのソファで20分ぐらいただ座って休憩した。B会場の「赤レンガ1号倉庫」に着いた時はもう2時半を回っていた。4日は日曜日だったのでB会場は混雑していて、外に行列して冷たい風が吹く中30分余り待たなければならなかった。こちらのB会場も23人の殆どの作品が映像の上映だった。そして「れんがパーク」に置いてあるオノ・ヨーコの貨車の作品を見終わった時はすでに5時近くなっていて、ちょうど日が沈んだところだった。

 A会場もB会場も作品が映像の上映だから見ていると時間が掛かる。それも、同じ場所を延々と映し出しているような作品は、通り過ぎてしまえばそれまでだが、見始めてから作品の展開が分かるまで見ると、どうしても時間が掛かってしまう。ストーリーがあったり、展開が激しければ、映像に引き込まれて見てしまうことになるが、そうでないから見る方が積極的にならなければ感じが伝わってこない。というわけで、歩き回り見て立っていたので、とにかく「疲れたあ」という印象が先に走った。そして「美術的な表現」というものの様変わりについて考えてみたいと思いながら、もう一週間も経ってしまった。まだ考えは纏まっていない。

 主催者が映像に視点を置いて作家を選んだのかも知れないが、それにしても100人以上の世界の美術家の作品が映像の上映だったことは、「様変わり」と感じないわけには行かなかった。そして、その映像がいわゆる映像作家が作る映像とは違う。映像作家が作るときは、映像作品の時間の枠というものをはっきりさせている。つまり、始めがあった終わりがある。今回のブースでの上映を見ていると、タイトルやスタッフ名が上映される瞬間があるものもあったが、殆どがループして上映されていたので、映像作品としての時間の枠を超えている。イメージが問題というわけ。これをどう受け止めるか。美術というものが、絵画や彫刻という形を超えてイメージそのものを見るものに手渡そうとしていると言えばいいのだろうか。そのためにいろいろな技術が使われる。カメラとプロジェクター、あるいはコンピュータとか。

 A会場のあるブースでは、東南アジアの観光客を乗せる三輪自転車タクシーを何台か海底に沈めて、数人の男たちがその海底で漕いだり押したりする映像を上映していた。男たちは息が苦しくなると海面に泳ぎ昇って息をしてまた戻って押したり漕いだりするということを繰り返していた。海底パフォーマンスの記録映像といってしまえばそうには違いないが、そこではそういう「記録映像」というようには見えなかった。暗いブースに足を踏み入れるといきなり海底で三輪タクシーを押している情景に直面する。しばらく見ていると、別の情景への展開がないから、そこで「水中」という空間と、「呼吸」という人間の生理が迫ってくる。見たことなかった光景だが、あり得るものとして、驚きながら無駄な行為をする人たちを見ながら、その行為の持つ意味合いをはっきりと掴めないまま立ち尽くし立ち去ることになった。

 またA会場の別のブースでは、モニターが数台置いてあって、その前にクッションとヘッドフォンが置いてあり、それぞれのモニターには違うビデオ映像が流され続けていた。クッションとヘッドフォンが空いていたので、わたしがたまたま座ったモニターには、多分香港と思われる街の道路脇に店を出している頭に瘤のある占い師の年輩の男が映し出されていた。撮影者か同行の者に彼が自分の修行や能力を語り実演してみせる。彼の肌や目つきや表情がクローズアップされたりして、撮影はその場だけで彼という人物に迫ろうと積極的に行われている。10分を越えなかったと思うが、最初に見たところに戻ったのでわたしはクッションから立ち上がった。隣のモニターには歌舞伎役者の楽屋での姿が延々と映し出されているの横目で見ていた。一つのモニター毎に一人の人物の「姿」がイメージとして流されていると分かって、そのブースを立ち去った。

 B会場の入って直ぐ左のブースでは、かなり幅の広い壁面一杯に三面マルチで三つの違った映像が上映されていた。見てから10日近く経った現在、どの映像がどれと組み合わされていたか定かでなくなったが、わたしが入ったとき中央に街頭で何かしているピエロが映っていて、左に驢馬で生活している人たちの姿があった。右は忘れた。その真ん中の映像が何処かのヨーロッパを思わせる都市の夜の街頭の映像に変わり若い男性が彷徨っている情景に変わった。そして、黒人が何かの大会で人種差別を訴えて演説している映像になった。インドか何処かの植民地の軍楽隊の映像、更に二面になり両方が水害の映像に変わるといったように展開した。わたしは始め立っていたが、一列だけ並べられたベンチが空いたので座ってしばらく見ていた。一つ一つの映像が長いから、結構時間が経った。まだまだ見ていたかったが、入ったばかりのこのブースに時間が取られるのもどうかと思い、人垣を掻き分けで出てしまった。

 これらの作品についてどう受け止めるか。考えを語るのはまたの機会にしよう。



2001年11月7日

 映像演劇学科1年生の「演技構成」の発表。


「演技構成」の場面
 「テトラポット伯爵夫人たち」の一場面
テトラポット伯爵夫人たちは浮いて数える。

「演技構成」の場面
 「哭」の一場面
男は女たちにぶっ飛ばされる。

 多摩美・映像演劇学科の一年生は「人生を考える本」を作った後、10月のメニュとして「空間表現基礎」の「演技構成」をやった。「泣く」というテーマで7、8人が一組になって演劇的な表現を試みるというもの。その発表が10月30日にあった。3週間で10分間ほどの脚本を書き、稽古して、上演した。20歳前後の連中が「泣く」という基本的な感情をどう捉えて表現するか、わたしとしては楽しみだった。そして、4時間ほどの10組の発表を大いに楽しむことができた。目立ちたがりやの彼らも楽しんだと思う。いや、目立たなかった者たちはちょっと乗れなかったかもしれない。

 先ず、彼らの脚本の題名を並べてみる。「しんしんしとしと」「ペンタゴン、先輩」「哭」「そろそろ勃起!!」「何じゃ(NJ)」「THE・勿古利達(もっこりーず)」「B@BY」「空気慈雨空洞楽団」「じゅたいこくち」「テトラポット伯爵夫人たち」というもの。「しんしんしとしと」と「哭」はテーマの「泣く」と重なりそうな感じがするが、あとは何処に「泣く」があるの、と思ってしまう。しかし、上演されたものを見ると、結構ストレートに「泣く」を捉えていたり、アイロニーを効かせているものなどもあったが、飛躍が過ぎて説明を聞かなければ、彼らの「泣く」のとらえどころを理解することができないものもあった。いや、説明を聞いてもなかなか分からないというのもあったが。

 それぞれの内容は、一つ一つ説明していると見てない人にとっては煩わしいので、興味のある方は表にして学生たちに配った「演技構成の内容と概評」を見ていただくとして、わたしが面白いと思った三つの発表を紹介することにする。
 先ず、「テトラポット伯爵夫人たち」。タイトルの意味はよく分からない。多分、感覚を目一杯に開いて脚本が書かれ演出された、と受け止めた。佐々木文美さんという独特の表意文字で飛躍したお話しを書くのを得意にしている学生が脚本を書いた。アクティング・エリアの中央にスポットが照らされると、白い衣装に赤い帯を纏った四人のテトラポット伯爵夫人たちが輪になって踊りながら登場して、その中の一人が「1、2、3、4、、、、」と数え始め、「15、16、17、18」まで来たところで「大昔まだ重力が無く、人が浮いて生活していた頃の話」という。彼女たちは音楽に合わせて踊りながら、代わる代わる叫んだり話たりする。その話では「重力がないから人は浮いて生活していたが、突然、おじさんが現れて、そのおじさんの鼻の穴に、豚の鼻が乗り移って、おじさんは恥ずかしさのあまりに泣いた。その涙はコンクリートになって地面に染みていって、足が地面にくっついて、重力が生まれたのだったとさというわけ」で、テトラポット伯爵夫人たちはまた踊りながら闇の中に消えていく。
 1から18まで数えて「まだ重力がない」と切り出すあたり、またその浮いている娘たちに対して、おじさんが鼻の穴を恥ずかしがって泣くという展開、その涙が重力を生んだという結末、おじさんのわたしは思わず胸に応えてしまった。童話風の世界はまだ成長しきってない感性を表しているように思えるが、17、18で重力がない時代へと飛躍させるあたりは、日頃自意識というものと向き合い悩まされていることからの発想であろう。そこで、少女からすれば汚らしいとも言えるおじさんを持ち出して、彼の涙が彼女たちを現実に引き戻すというのだ。的確に表現しているなあ、と思ってしまう。勿論、この10分に満たない小さなミュージカルは、演技も拙く、大勢の見知らぬ観客を前にした大きな舞台では持ち堪えないだろうが、誰が踊っていて誰がライト当てていて誰が音楽出ししているということが分かっているこの小さな空間では、わたしの記憶に鮮明に残った。

 次の「哭」は、朝鮮の葬式などで雇われていって泣く女たちと彼女たちを仕切る男を登場させた野上絹代さんの脚本の上演。女たちはその男を馬鹿にしていて、報酬の彼の取り分まで横取りして、ぶっ飛ばす。男は悔し涙にくれる。そうこうしているうちに、女たちは一人一人死んで減っていって最後に全部死んで、あの世で男をあざ笑う。「泣く」というテーマに、泣き女を登場させ、彼女らの「嘘泣き」と男の「本当の悔し泣き」を対比した構成は、出来すぎといえば出来すぎの感があるが、なかなかなものと思った。多分、作者は沢山見たり読んだりしているのだろう。才気を突っ張らせて行くところは魅力だが、下手すると手つきが見えてしまう畏れがあると思った。でも、こういう脚本を即座に書いてやってしまうというのは若くなくちゃ出来ない。また、出来てしまうということが危ういという感じ。自分独自の鉱脈を見つければ力のある作家になると思った。

 そして、「じゅたいこくち」。暗闇に響き渡る男と女の会話から始まる。父と娘の会話で、父は娘のことを「永遠に幼虫のままのジュネモンシロアゲハの幼虫」だと決めつける。ところがこの親子は近親相姦の関係で、娘は父の子を宿している。灯りが入ると、娘の部屋、といってもアクティング・エリアの周辺に四人の女性が鉄棒をしたり逆立ちしたり中腰でいたり屈伸運動をしていたりするだけ。実はこの四人は部屋の家具を演じているのだ。そこに娘が客席から駆け込んできて、悩みを語る。家具たちは娘を責め、娘は薬を呑んでトイレで堕胎する。そのトイレの便器がまた客席の中でドラマの進行中ずっとブリッジの姿勢で堪えていた女子。娘はその上にまたがって堕胎する、というところで終わる。

 男が娘に語る「ジュネモンシロアゲハの永遠の幼虫」という喩えが効いていた。その押しつけがましい男の声に抗う娘の甘い声がスタジオ一杯に響いて耳から離れなくなる。娘を演じた渡邉真子さんは普段大人しい学生だと思っていたので、その驚きも加わってぐいぐいと引き込まれて見てしまった。作・演出の北川陽子さんは、先の「人生を考える本」の制作の時、彼女が作った「人生本」は生ものを使ったので腐らないように冷蔵庫に保管して置かなければならなかったという人。五人の女優を日常の家具に仕立て、進行中耐える姿勢を維持させて、女性の身体の痛みを象徴させたのは見物だった。こんなに易々と比喩を使ってしまうのかと驚かされた。

 わたしは、身贔屓で見ているから引き込まれるのかも知れないが、どうしてどうしてなかなかやるじゃないという思いを強く持たされる。わたしが持っていない自由自在なところがある。彼ら彼女らの表現を接していると、既成のメディアを支配しているものがつまらなく見えてしまう。これはどういうことなのだろう。先週は「横浜トリエンナーレ2001」を見てきた。それについても考えてみたい。



     

2001年11月4日

 沢山の果実。


秋の果実
 送られたきた沢山の果実。

 「時間が経つのが速い」というのが、最近の合い言葉のようになっているような気がする。ニュースキャスターも、既に登場した街のクリスマスデコレーションを報じてそういう口振りだった。時間が経つのを速く感じるというのは、次から次へといろいろなことが起こるからだ。特に、9月のテロ事件以後、アメリカが戦争をしかけてから、炭疽菌や空爆のニュースを見て、タリバンのスポークスマンの談話を聞いていると、10月をぽんと跳び越したような気にもなる。そして、今月はWindowsXP日本語版が発売される。直ぐに買ってアップグレードする気にはなれないけど。新聞には景気は先行きが見えず霧の中と出ている、その一方で時間ばかり速く過ぎて行くというのは気味が悪い。

 先週は、上岡文枝さんから柘榴と柿が送られてきて、テーブルの上の置いてその色を楽しんでいたら、そこへキトラ文庫の安田有さんから庭で採れたという柿と花梨が送られてきて、テーブルの上がにわかににぎやかになった。果物が沢山あると文字通り色とりどりで、豊かな気持ちになれる。赤とか黄色とか、見とれている。でも、数分も見続けていることは出来ないで、テレビの音に引かれて画面に目が移ってしまう。しかし、その果実があるということ、またその色を数分でも見るということ、そこで感受するもの、そういうことがそういうこととしてある、そういうものがそういうものとしてある、という認識をもたらす。それが何かと急いで結論を出したくない。言葉の運びには時間を掛けたい。

   



 
 















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